不器用な僕たちの恋愛事情

 写真部のパソコンに接続されたままだったUSBメモリを取り外し、ポケットに突っ込んだ。

 迂闊にも、昨日挿しっぱなしで忘れて帰ってしまった。幸い流出して困るようなデータは入ってなかったが、今回のテーマ写真が入っているので、取り外しておくに越した事はない。

「よし」

 言って踵を返すと、丁度入って来た佳と鉢合わせた。

「桂くん。どうしたの?」
「ちょっとデータの編集しようかと思って。美空さんは?」
「忘れ物取りに来ただけ。ごめん。みんな待ってるんで、もお行くね」

 二人きりは避けたかった。緊張感で息苦しくなってくる。

 そそくさと退出しようと佳の前を通り過ぎると、ふいに手首を掴まれた。



 スマホのバイブが鳴動し、みんな自分のスマホを確認した。違うと知り鳴動元を探すと、十玖の弁当の脇に置かれたままのスマホが着信を知らせていた。

 発信は天駆だ。こんな時間に掛けて寄越すなんて、急用かもしれない。

「もしもし。すいません。晴日です。いま十玖離れてて。じき戻ると思うんですけど」
『そっか。んじゃ折返し電話するように言って貰えるかな?』
「了解です」

 電話を切って、時間を確認する。

「ちょっと俺も行ってくるわ」

 十玖のスマホを持って晴日が立ち上がった。



「ちょっと待って。話があるんです」

 佳に手首を掴まれて、心臓がドンッと脈打った。脂汗が出てくる。

「放して」

 佳の指を剥がそうとする美空の手を止める。

 激しい心臓の連打。呼吸が乱れてくる。

 佳は、体がガタガタ震えだした美空の顔を覗き込んだ。引きつって嫌悪を露わにした眼差し。

「みく…」
「いや――――ッ!!」

 全身で拒絶する叫び。佳は驚いて手を放した。しゃがんだ美空は四つん這いになって、壁際まで慌てて移動し、体を丸めて震えている。

 何が起こったのか分からない佳は茫然自失で眺めていた。

「美空!!」

 悲鳴を聞きつけて、十玖が飛び込んで来た。

 佳を見、通り過ぎざま彼の頬を張りつけ、美空に駆け寄る。

「美空? 美空。大丈夫だから安心して。怖くないから。美空?」

 泣きわめき、暴れる美空を抱きしめ、背中を擦り必死に宥めていた。

 十玖は優しい声で絶え間なく声を掛け続けている。

佳は凍り付いていた。

「おーい。とお…く……」

 スマホを持って来た晴日が、入り口で固まった。

 佳が立ち尽くし、パニック状態の美空を必死に宥めている十玖。何かがあったのは一目瞭然だった。

 晴日は佳に掴みかかった。

「おまえ何した!?」
「は…るさん。お…俺は何も…ちょっと手首を掴んだだけで、他には何も」
「手首掴んで何するつもりだったんだ!?」

 佳の知ってる晴日はいつも笑顔だった。いま目の前の彼は、剣呑とした目で自分を見ている。

 引き攣った顔で、晴日を見返す。

「は…話を……き…聞いて…欲しくて」
「おまえには無理だって言ったろ! ここまで回復するのに、どれだけ十玖が骨を折ったか知りもしない奴が、茶々入れんな!」

「そんな…つもりじゃ」

 なかった。まさか美空がこんなに取り乱すなんて、誰が思うだろう。

 落ち着いてきた美空に囁きかけ、髪を撫でる十玖は泣きそうな顔をしていた。彼女を抱き上げ、立ち上がる。

「晴さん。保健室に薬預けてるんで、連れて行きます」
「分かった。あ、十玖。天駆さんから電話あって、勝手に出ちゃったんだけど、折返し欲しいそうだ」

 両手が塞がっている十玖のブレザーのポケットに、スマホを滑らせる。

「すみません。ありがとうございます」

 軽く頭を下げ、十玖は写真部を後にした。

 晴日は佳に向き直り、ため息をつく。徐にスマホを取り出して、竜助に電話した。

「もし。悪いけど先に食ってて。佳がちょっとやらかしてくれたんで、十玖が美空、保健室に連れてったんだわ。……んで、ちょっと佳と話すっから。よろしく」

 電話口の後ろで萌のブーイングが聞こえた。

 楽しみにしていたのは何も萌だけじゃない。晴日だって、周囲に内緒にしている分、一緒にいられる時間は貴重なひと時なのだから。

 それを思うと腹立たしい。

 ギッと睨みつける。佳はたじろいだ。

 最初から、佳に説明しておくべきだった。美空に想いを寄せているのを知っていたのだから。

 晴日はもう一度ため息をついた。

「去年の事件、知ってるか?」
「……はい」
「美空は、正気を失うほど、怖い思いをした。何度も自殺未遂を繰り返して、最後には十玖を巻き込んで飛び降りた。それでやっと正気を取り戻せたんだ。それでも、最初は十玖すら迂闊に触れることが出来ないくらい、そりゃあ酷いものだった。現場を目の当たりにして、十玖だって心療内科に通ってたにもかかわらず、普通だったら辛くて逃げ出すだろうに、諦めないで、献身的に美空に寄り添ってくれている十玖に感謝してる。しんどくても二人で乗り越えて、やっとここまで来たんだ。もう余計な事しないでやって」

 美空から感じた壁の正体。

 晴日が全部を話さずとも、察しはついた。

 美空が悪いわけじゃないけれど、男の身勝手で責めてしまってもおかしくない状況だろう。

 自分は変わらず好きでいる事が出来るのか、変な色眼鏡で見ずにいる事が出来るのか、確信は全く持てない。

「佳がまだ少しでも美空を好きでいてくれるなら、この事は誰にも言わないでやって欲しい」
「誰にも…言えませんよ」
「ありがとな」
「お礼なんて…」

 言われたら、どうしていいのか分からない。美空の傷を抉ってしまったのに。

「美空さんには、必要以上に近付きませんから。トークさんにもそう伝えて下さい。すみませんでした」

 深々と頭を下げた。晴日は佳の頭をよしよしすると、「じゃあな」と言って、部室を出て行った。

 残された佳は、自責の念に圧し潰されそうで、一人静かに涙した。



 安定剤を飲んで眠る美空の手の甲に唇を押し当てて、十玖はひたすらに美空を見つめる。

 有理に教室に戻るように言われたが、頑として動かなかった。

 あの後、晴日が様子を見に来て、佳の伝言を伝えると、十玖の肩を叩いてみんなの元に戻って行った。

「十玖。あんたは大丈夫なの?」
「平気」
「ねえ。お茶飲まない?」
「いらない」
「お腹が温まると落ち着くわよ?」
「欲しくない」

 有理はやれやれとため息をついた。

 こっちがどんなに心配したって、この頑固者が拒否したら、気持ちが落ち着くまで待つしかない。

 最近は薬に頼らず、落ち着いて生活していたのに、十玖からの説明はない。晴日も複雑そうな笑みを浮かべて行ってしまった。

 スクールカウンセリングも兼任している有理は、十玖が不安定な精神を抱えているのを知っている。露わにした心の闇も。

 美空がいるから保てている精神状態は、危うさを垣間見せる。

 二人が付き合うまでの十玖は、人にここまで執着することがなかった。ずっと想い続けた子と付き合える様になって、執着するのは解らなくもない。それが病的と思えるくらい酷くなったのは事件後からだ。

 自分を責め続けて、壊れてしまうのではないかと心配したが、崖っぷちで踏ん張って耐えていた。ひたすら美空の為に。

 正直、この義弟が哀れでならない。楽な道だって選択できたはずなのに、それを選べないのだから。

 純粋な愛情なのか、自責の念を払拭させるための執着なのか。有理はいつも考える。

 仮に美空を失うことになったら、この義弟はどうなってしまうのだろう。

 そんな日が来ないことを祈っているが、二人はまだ若い。これからも様々な出会いが用意されている。でもそんな忠告が無駄な事も知っている。

 有理は、微動だにせず美空を見つめる十玖の頭を撫でた。



 1Bの前で、佳と萌が対峙していた。

 萌は屋上から戻り、佳は部室から戻ったところでかち合った。

 すごい形相で佳を見上げてる。

 萌は大きく後ろに反り返り――――佳の胸に頭突きをかました。

 予想だにしなかった攻撃をまともに食らい、息が出来ない佳が前屈みになり、そのまましゃがみ込んだ。

 萌は額を擦りながら、ぐっと唇を噛んだ。怒りでじわじわと涙が浮かんでくる。

「美空さんになんて事してくれてんのよ!! 二人を傷つけないでよ!! 美空さん悪化したら、あんたの事、絶対に許さないからっ。一生恨んでやる~ぅ」

 言いざまペタリと座り込んで、わんわんと子供のように泣き出した。

 騒ぎを聞きつけた生徒たちが集まってくるのも構わずに、号泣する萌。

「ごめん。もうしないから」

 泣き止んでよ、と半泣きの佳。

 乱闘騒ぎを起こし、多勢に無勢でも泣きもしなかった萌が号泣する様を見て、1C女子が萌を立たせて教室に連れ帰った。

 萌はしばらく佳に対して幼稚な悪口を口にしながら泣きわめき、佳は周囲の冷たい視線を浴びながら、机に突っ伏した。



 萌が佳にケンカを売った話は、すぐ晴日たちの耳にも入った。直情的な萌らしい。

 萌もあの現場を目撃し、女であることの不条理さに憤った。

 恋人の不幸な事件から目を逸らさず、耐える姿を目の当たりにし、あれほど大好きだった十玖から身を引くと、美空を出来る限りサポートしてくれるようになった。

 形(なり)はちっちゃくても一応女だ。説明しなくても解ってくれる萌は、美空には必要な存在だ。

 さっき十玖からラインが届き、美空を家まで送ってから、音楽室に行くとあった。ただし美空の状態次第では、リハを休ませて欲しいと言うことだった。同じ文面で謙人にも送信したようだ。

 ライヴ当日じゃなかったのが、不幸中の幸いか。

 こんな時、いざとなったらライヴを捨ててでも、十玖は美空を選んでしまいそうで、戦々恐々とする。

 前の晴日なら、美空を蔑ろにする男なんてのは問題外だった。何を置いても美空を優先するような男でなければ、父も晴日も絶対に認めない自信があったのだ。

 しかしいざとなったら、非常に困る。

 美空を悲しませたくない。けどA・Dには今や必要不可欠。

 だからと言って美空に早く克服しろなんて事は、口が裂けたって言えやしない。男が考えるほど、単純な事じゃない。

 レイプされた娘を立ち直らせ、変わらず大事にしてくれる十玖に、父は一方ならない感謝の念を抱いてる。将来的に二人が結婚するとなったら、反対するはずもない。そのくらい十玖を信用している父をなおざりにして、十玖を美空から引き離すようなことをしたら、間違いなく血の雨が降る。

 どうしたらいいのか、ほとほと困ってしまう。

 美空の恋人と、トークが別人だったら良かったのにと、考えても詮無い事を本気で考える。

 どちらにしても、美空の早い復活を願うばかりだ。



 手紙の反応は意外に冷めていた。

 意外に図太いのか、想定内だったのか。

 十玖の従妹が、美空の事で男子にケンカを売ったらしい。彼が何をしたかなんて興味はないが、十玖の従妹を味方につけている美空には腹が立つ。

 美空が保健室に運ばれ、また十玖の手を煩わせたようだ。

 ずるい女。

 晴日の妹だからって、心も体も独り占めなんて許されていい訳ない。

 少し、自分よりも近くに居ただけなのに。

 あの優しい人が、欲しい。

 どんな事をしても。
 


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