オトナの恋は礼儀知らず
「化学的妊娠ですね。
 一般的には化学的流産と言うらしいですが。」

 2人で入った診察室で言われた『流産』の言葉が心臓を抉り取られたような痛みを感じた。

 肩に優しく手を置かれて、その手を握る。

 昨日枯れるほど泣いたお陰で先生の前で泣くような失態を演じずに済んだ。
 もちろんこうして桜川さんが隣にいてぬくもりを与えてくれることは大きい。

 ただ目は泣き腫らしているのだから失望や虚無感は先生にも痛いほど伝わっているようだった。

「自然流産なので母体には問題はありません。
 気を落とさないで。
 まだ妊娠できる可能性はありますから。
 普通の生活も性生活も普段通りしてもらって大丈夫です。
 ただ、年齢的に妊娠しにくいですので不妊治療に興味があるのでしたら紹介します。」

 不妊治療……そこまでするほどに子どもが欲しかったわけじゃない。
 だいたい結婚………してるわけじゃない。



 病院からずっと黙ったままの桜川さんに不安になる。

 昨晩はずっと抱きしめていてくれた。
 何度も何度も「愛しています」と言ってくれた。

 改めて病院の先生に言われて何か思うことがあったのかもしれない。
 もう一度……また何度も「愛しています」と言って欲しいのに………。

 マンションに戻ると不安が口からこぼれて止まらなくなってしまった。

「私はもう1人なんだと思うと急に寂しくなります。
 1人でいいと思っていたのに、子どもが出来ると思ったら嬉しくてもう1人じゃないんだって…………。
 それなのに………。」

 それなのに妊娠していなかった。

 私は桜川さんが思っているような人間じゃない。
 全然、素敵な人なんかじゃない。
 桜川さんのことよりも自分が1人になるのが怖いだけ。



 手に入れかけた幸せは醜いほどの執着に変わった。
 1人で気丈に振る舞っていた頃には戻れなかった。

 こんなことなら最初から何もなければ良かったのに………。




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