薔薇色に愛されて
EDと言うカレ血緒の出会い

EDと言う美青年との出会い

 肺が凍りつくかのような明け方。昨夜の宴の残骸をついばむ黒いカラスたち。街はまだ目覚めていない。パンプスが路地を歩くたびに響く足音は、痛い程はりつめた寒気を穿つ。あの青年に引き裂かれた脚元から冷気が忍び寄る。手袋をしているというのに指先が尖った氷でつつかれているような感がある。自販機でホットコーヒーでも買って飲もうか。財布を取り出した刹那小銭がこぼれ落ちた。すすけた小銭に混じって光を放ってドロップした銀色の輪――香織は取るものも取りあえずそれを拾う。手袋を外し、あらためてそれをしかるべき指にはめてみる。やっぱり無理矢理帰るべきだったわ。今更後悔しても時間は元に戻らない。とりあえず今は、彼が目を覚ます前に帰らなくちゃ。
 就職難のこの時代。香織は第1志望の大手製菓会社に入ることができた。総務部で事務をしていたが、25歳の誕生日の前に、念願の宣伝部に配属が決まって友人達が祝ってくれたのである。
香織はさほど飲んでいなかったのに帰りの電車の中で急に気分が悪くなった。真向かいの、ハーフのモデルのように顔立ちが整った青年が、心配して席を譲ってくれた。それでも吐き気がおさまらないのを見て、青年はあまりに気ががりですと言って、香織と共に駅を降りた。
ここから私鉄に乗り換えれば香織の家の最寄り駅に着く。トイレと駅のコンコースにあるベンチを幾度往復したことか。青年は香織の荷物の番をしながら、ティッシュを渡してくれた。行き交う人もまばらになり、終電はとうに出てしまっていた。
「ごめんなさい……」
 改めて青年を見てみると、社会人になって1年も経っていない感があった。まだ初々しさの抜け切れてない青さが、新品のネクタイの丁寧な結び目から漂ってくる。
「謝ることはないですよ。下心があるからこうしているんです」
 彼は何食わぬ顔をして大胆な台詞をサラリと口にした。
「え? 」
「ですから下心」
 繰り返して、彼は香織の顔を真正面から見た。涼やかな黒目勝ちの瞳と、筋の通った高い鼻が面長の顔に実によく馴染んでいる。
「ここでこうしていても埒があかない」
 青年はすっとたちあがると、香織に手を差し伸べた。
「少しどこかで休みましょう。付き合いますよ」
「あの、私……」
 酒で舌が回らず、力の入らない香織の肩に手を廻し、青年はスクランブル交差点から長い脚の靴音を響かせて、道玄坂へ向かってゆく。香織といえばまだ半分、草原に霧が漂っているような状態である。そんな彼女に有無を言わさず、彼は坂を右折すると、万華鏡のような建物に入る。金曜の晩らしく、一部屋しか残っていないパネルのスイッチをアプリを触るが如くさっと押し、鍵をもらって、青年は部屋へ香織を引き込んだ。
「酔いをさますには風呂に入った方がいい」
 青年はてきぱきと、手馴れたメードの如く湯を入れにガラス張りの浴室へと向かう。ミュシャの模造画に見下ろされた丸いピンクのダブルベッドに腰掛けて、香織はあっと気付いた。指輪!悪戯をした子供がそれを隠すようにうろたえてはずし財布の中に入れる。この魔法の劇のような状況で、自分でもどうして既婚者である事を隠したがるのかよく分からない。
 戻ってきた青年はスーツの上着を脱いで、きちんとハンガーにかけた。振り向いてこちらに近寄り、もどかしげにネクタイを緩めつつ、香織をゆっくりベッドに押し倒そうとしながら、彫りの深い輝くような眼光をまっすぐ香織にむけて
「本当に綺麗だ」
 と、照れもせず一言口にした。香織ははっと我に帰った。
「ちょっと待って下さい。私たち、さっき会ったばかりで、まだお互いのこと何も知らないし――」
「では僕のことを話せばよろしいですか」
 と、青年は聞く。そして鞄からスマホを取り出す。
「LINEの交換をしましょう」
これでよし、とばかりにスマホをしまうと、
「朝までまだ少し時間がある。さあ、寝ましょうか」
 そう言うや否や、青年はベッドにもぐりこみ、あっという間に規則正しい寝息をたて始めた。
 残された香織は訳がわからなくなった。この状態は何? 電車で偶然遭遇して1時間後には、円山町のホテルの1室で慎ましい寝息を立てているこの青年。そして私はその隣にいてすっかり正気を取り戻している。
 香織はそっと布団をはいで、青年の股間を見てみた。おそるおそる触ってみる。全く硬くなっていない。指輪を外した自分もなんだが、私に対して全く欲情していない。私ってそんなに魅力がないのかな。だとしたら聖職者が十字架を持つような青年なんだわ。だけど先ほどのしかかって来た時の「本当に綺麗です」とはどういう意味なのかしら。――考えても仕方がない。とりあえず今は少し休んで――スマホのアラームをセットして、香織は瞳を閉じた。4時間は経ったか。アラームの音で香織は目を覚ました。
帰るんですか、青年も起きたようだ。何も言わずに香織がベッドからおりようとしたその瞬間、青年の仄かに青白い指が、香織の脚をとらえた。そのまま爪を立てる。その刹那、黒いストッキングに白磁のようなひとすじの線が顕になった。約束の印です、青年は真摯な口調で言った。今日は土曜日だし、僕はもう少し寝ます。では又お逢いしましょう、青年は涼しい顔でそう言って、再び長いまつげに縁取られた黒目を閉じた。
 始発の電車内はまるで図書館にいるように整然と静まり返っていた。オフ会で朝までカラオケをした若者だろうか。車内には数人の客がいた。起きてすぐのせいか視界がぼやけて見える。いつも見慣れていた景色だがこんな時間に見るのは初めてだ。薄墨色のビルの群れの向こうから空が青くなって行くのが見て取れた。香織の自宅の最寄り駅に着くと、仄かな紅色の太陽が、住宅街の輪郭を染め上げ始めていた。向かいの家の寒椿が、冷え切った空気に彩りを添える。マンションのエレベーターを上がり、そっと鍵を開ける。家の中は湖に朝霧がかかって凪がないかのように静まりかえっていた。物音立てないように廊下を歩いて寝室の扉をそっと開けてみた。ダブルベットの中で寝息が聞こえる。化粧を落とし、バスローブに着替え、ベッドにもぐりこむ。1時間程仮眠を取って、身を起こし、台所へ向かった。ほどなく目覚まし時計が鳴った。昨日はかなり遅かったようだね、と史朗が伸びをしながら、背中を掻きつつ起きてきた。ええ。みんなが心から祝ってくれて、 エプロンをかけ、朝食の準備をしながら香織が答える。スクランブルエッグを作っているときスマホのLINEの着信音が、玄関先に置いてあった香織のバックの中からリビングに響いた。すぐさまあの青年からだと予感した香織は、取り乱して玄関先へ向かう。そこには青年の携帯電話番号が記されていた。史朗はシャワーを浴びにバスルームへ向かった。とりあえず急いで℡する。もしもし。昨日の者です。覚えていてくださいました?、青年の声が受話器の向うから伝わってくる。忘れ物ですよ、と告げられて思い出した。パーティーでもらった大きな薔薇の花束。気分が悪くなってからはどこに置いたのやらさっぱり忘れていたが、青年が持っていてくれたのか。すみません。捨てて帰るなり、お持ち帰りするなり、適当に処分しちゃって下さ……そうはいきません、香織が話し終えないうちに、青年の凛とした声がした。
「薔薇です」
「は? 」
「だからこれは薔薇です」
「はあ」
「。とある作家の著書にあります。これは美女の腕にさりげなく抱えられることもあれば、醜婦の窓辺に飾られてその感傷をそそることもあるでしょう。未熟な若者たちの恋愛遊戯の小道具となることもあろうし、更にまた裸体写真のモデル女の陰部におかれることもある。この花はあるいは安定したあるいは皮肉な、気取った、あるいはまだやりきれぬといった顔つきを示しながら、それぞれの場所に適応し――」
 お経のように青年は淡々と暗誦し続ける。香織といえば、史朗がバスルームから出てこないかどうか気が気ではなくなり、分かりました。受け取ればいいんですね、と、ついに根負けして言ってしまった。お宅にお伺いしてもよろしいですね。いきなり確認されて、勝負を決めかねる審判員のような香織を気にもとめず、青年は兵士の行進のように話を進める。では住所を送ってください。ご自宅はマンションですか?お名前は?青年はまくし立てる。
あの困るんです。今――確かにあの人は俳優のような目鼻立ちで騎士のように折り目正しく親切な好青年だったが、浮気をしようなどとは思っていない。夫がいるから――喉元まで出かかった声をさえぎるように息つく暇もなく青年はしゃべる。それなら「今」以外のお時間とご住所をお教え下さい、と言う青年。香織は、まるでめまぐるしく変化するネオンのような勢いについてゆけない。こちらのスマホの充電がもう切れそうなんですけど、とこともなげに言う青年。香織は思わず、すみません。送りますから、と口にしてしまった。では、とあっけなくスマホが切れた。今日は史朗がいるし、そうだ、明日なら史朗は休日出勤だから――住所と最寄りの駅からの道順を書き、送信した。その刹那、香織は正気づいた――自分はこの部屋にあの青年を招き入れ、どうするつもりなのだろう。
 はぁー、すっきりした、と洗った髪を拭きながら、史朗が風呂から出てきた。何もしたわけではないけれど、一晩青年とホテルにいたこと、その青年が家に来るという不安、つい花屋から薔薇の花を万引きしてしまったような罪悪感が彼女を襲う。香織は思わず史朗に抱きついた。香織は何も言わない。ただぎゅうぎゅうと史朗にしがみついた。疲れたんだよ。少し休んだら?、史朗が気遣う.どの位まどろんだことだろう。ふと眠りから覚めてみると、史朗がリビングで遅めの昼食を作っている。にんにくとオリーブオイルの匂いが香ばしい。待ってろよー。俺様が腕を振るった逸品だ,と史朗はテーブルに皿を置き始めた。ゆでたてのスパゲッティに熱々のクリームを絡ませてパンプキンスープとシーザーサラダを器に盛り付け、あっという間にご馳走が出来上がった。香織は席につく。スープの程よい温かさが身にしみる。カルボナーラの黄身の混ぜ具合の絶妙なこと。サラダのアンチョビとベーコンのほどよい塩味、カリッとした歯ごたえ。口の中がとろけそう!と感動する。この夫に何の不満があろう。新条財閥は江戸時代からある、日本や世界の政治を根底から揺るがしかねない経済界のトップである。史朗はそこの御曹司だった。血統か育ちの良さか。彼は夢を追う野心を身につけながらも、目鼻立ちには気品と威厳があってエリートの貴公子のようで、道行く人が振り返るオーラがある。駒場でのサークル活動に熱心なあまり、赤門を1度も通らず、無事卒業した史朗。人懐っこい笑顔と温和な性格から男女を問わず友人が多く、代返してもらったり、快くノートを貸してくれたからである。年賀状作りも大変だ。史朗の所作には血統の良い余裕がある。取引先の大企業の重役から、お歳暮やお中元が沢山届く。家事も快く分担してくれる。サーフィンやスノボーやフットサル、ダイビングなど運動神経も抜群だ。本棚や椅子を組み立ててみたり、絵を描くかたわら、サックスを吹いたり、シャンガリアンハムスタ―を飼って可愛がったりする。超高級レストランから、コップ酒でするめをかじるドヤ街まで連れて行ってくれる。代官山や西麻布、広尾などの隠れ家的バーにも案内してくれる。皇室御用達の店で傘をオーダーメイドで作ってもらったかと思うと、バーゲンで売られていた格安の布地を買ってきて、器用な手縫いで浴衣を立派に仕上げて両方ともプレゼントしてくれる。香織が残業で遅くなると魚のあら煮を作って玄関先で香織を力一杯抱きしめる史朗。オーディオを自分で作る。お正月に富士山に登って、初日の出を拝もうと提案する。香織に次々と新しい世界を見せてくれる夫。あの時、指輪を外してしまったんだろう、住所まで教えてしまったのか。後悔しても致し方ない。今の幸せを壊すことはできない。とにかく花束を受け取って、紅茶の一杯でも出して帰ってもらおう。カルボナーラを口にしながら、香織は心の中で何度も呟いた。


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