揺蕩うもの
「いえ、今日行ったあたりには居ません。たぶん、今はかなり遠くに居るでしょう。今日のような力の使い方で私に分かるのは、近くのものだけですから」
 紗綾樺さんは言うと、再びウーロン茶に口をつけた。
「ごめんなさい、今日私にわかったのはこれだけです」
 申し訳なさそうに言う紗綾樺さんに、僕は慌てて頭を横に振った。
「とんでもないです。すごい手がかりです。ありがとうございました」
 僕はお礼を言うと、心配げに紗綾樺さんの事を見つめた。
「具合は大丈夫ですか? 夕飯に場所を変えようと思ったんですけど、お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。力を使うと、体力の消耗が激しいんです。少し休めば、問題ないです」
 紗綾樺さんの声は、さっきまでよりもしかっりしてきていた。
「夕飯は、何がいいですか? なんでも、お好きなものをご馳走します」
 言ってみたものの、時計を見ると既に夕飯には遅い時間になっていた。
 思えば、夕方から始めた崇君の情報集め、本当は最終目撃地点だけで済ませるはずが、紗綾樺さんの厚意に甘えて学校や家と、県をまたいでの移動をしたため、とっくに十一時を過ぎていた。これでは、まともなレストランは開いていない。
「昨日のファミレスで良いですよ。身の丈に合った場所がふさわしいですから」
 紗綾樺さんの笑顔に、僕は思わず紗綾樺さんの事を見つめてしまった。
「身の丈にふさわしいですか?」
 普通、若い女性が口にする言葉ではなかったので、思わず聞き返してしまった。
「ええ、兄の口癖なんです。私が贅沢をし過ぎないよう、常に身の丈に合った暮らしをするようにって」
 紗綾樺さんは何事もなかったように言うが、どう見ても彼女と兄の生活が贅沢すぎることはない。どちらかと言えば、質素で堅実という感じだ。
「厳しいお兄さんですね」
 思わず、思ったことがそのまま口をついて出てしまった。
「わかりません。私、自分でもよくわからないんです」
「わからない?」
「ええ」
 そう答える紗綾樺さんは、まるで透けて壁が見えそうなくらい、存在感がなかった。
 もっと詳しく彼女の事を知りたいと思ったが、僕はなぜか今はその時ではないと自分で感じた。
「今日は疲れていらっしゃるでしょう。お言葉に甘えて、昨日と同じファミレスで食事をしたら、送っていきます」
 僕が言うと、紗綾樺さんはカバンを手元に引き寄せた。
「きっと、今晩は、昨夜よりももっといろいろ兄が質問すると思います」
 その不安げな瞳に、僕は紗綾樺さんに多大な迷惑と苦労を掛けていることを実感した。
「本当に申し訳ないです」
「いいんです。でも、兄には崇君の捜索を手伝っていることは知られたくないんです。きっと兄は、最悪のケースを考えて、必ず反対しますから」
 紗綾樺さんの言った『最悪のケース』という言葉が、崇君の学校のそばで彼女が口にした『死体』という言葉に重なった。
 そうか、紗綾樺さんのお兄さんは、事件の捜査に巻き込まれて、彼女が被害者の死に責任を感じることを心配しているのか。
 納得はしたものの、これと言ってよい言い訳は思いつかなかった。
「とりあえず、お付き合いしているってことにしておいてください」
「えっ?」
 驚いた僕は思わず聞き返した。
「私みたいなのが相手では、お嫌かもしれませんが、兄もそれなら少しは納得します」
「いや、逆じゃないですか? 可愛い妹に悪い虫がついたと、お怒りになるでしょう?」
 紗綾樺さんのように、美しくて可憐な妹がいたら、自分だって絶対に若い男を近寄らせたくないと思うだろうと、僕は思いながら、昨晩、怒りと心配を露わにして階段を駆け下りて来たお兄さんの姿を思い浮かべた。
「たぶん、兄は、私が人と個人的な関わりを持つことができるようになったと、少し安心します」
 紗綾樺さんの言葉は静かだった。
「私には友達もいませんし、話をするのは、お客さんと兄だけです。だから、お付き合いをしていると言ったら、私が少し年頃の女の子らしくなったと、安心すると思います」
 彼女の説明に納得したわけではなかったが、ここで反対しても、彼女がその言い訳で通そうとすることははっきり見て取れた。
「紗綾樺さんが良いなら、僕は構いませんよ。紗綾樺さんみたいな素敵な人の恋人になれて幸運です。しかも、婚約してるんですからね」
 少し暗い表情の紗綾樺さんを力づけようと、僕は少しだけ茶目っ気たっぷりに言って見せた。
「そうですね。婚約指輪、買いに行ったんですもんね」
 紗綾樺さんもいうと、笑みを浮かべて見せた。
「あ、でも、そのことは兄には内緒で」
「もちろんです。じゃあ、行きましょう」
 僕が声をかけると、紗綾樺さんはゆっくりと立ち上がった。
「本当に、このフロアー、まだお客さんが入ってないんですね」
 完全に空室のフロアーを歩きながら、紗綾樺さんが呟いた。
「僕たちが出たら、たぶん満室になりますよ」
 言いながらエレベーターのボタンを押すと、ウィーンという音を立ててエレベーターが上昇を始めた。
 エレベーターは音もなくと言うには程遠い、また客が暴れたんだなと思わせる立て付けの悪そうな音をたててドアーを開けた。先に乗り込む紗綾樺さんに続いて僕は乗り込むと、一階のボタンを押した。
 エレベーターがフロアーを通過するたび、叫び声のような嬌声が扉越しに聞こえ、消えていった。
「ここで待っていてください」
 駐車場の出入り口に近いエレベーター脇の椅子に紗綾樺さんを座らせ、受付のカウンターに行くと、顔見知りの店長がホッとしたように僕の事を見つめた。
 溢れかえる受付フロアーから、店長が満室扱いにしてフロアー全体を使用できないようにしていたくれたことがわかる。
 丁寧にお礼を言い、一室分の料金を支払ってから、僕は紗綾樺さんのところに戻った。
「じゃあ、行きましょう」
「はい」
 紗綾樺さんは返事をすると、僕に続いて風紀の悪い街へと開く駐車場のドアーへと向かった。
 人間の心理は面白いもので、ドアーの向こう側に並んでいるのが背徳的なホテル街だと分かると、カラオケから出る自分たちまでが、なんだか背徳的な行為に及んでいたような変な罪悪感を感じてしまう。
 僕は車のロックを解除すると、紗綾樺さんを助手席に隠すように乗り込ませ、自分も小走りで運転手席に乗り込んだ。そして、闇を切り裂くように、一気に薄暗く細い路地から抜け出した。

 車を走らせながらも、紗綾樺さんに訊きたいことは沢山あった。
 どうやってあの情報を入手したのか、今日みたいに力を使うことによって、紗綾樺さんの健康に問題はないのか、それに、あの言葉の意味も。でも、臆病な僕は、せっかく紗綾樺さんと話したり、こうして捜査のためとは言え、会うことができるようになったのに、不用意な質問で紗綾樺さんとの関係を壊したくないと、自分でも不思議なくらい臆病になっていた。

☆☆☆

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