揺蕩うもの
「紗綾樺さん、つきましたよ」
ちょっと困ったような声で私を呼ぶ宮部に、私は驚いてパチリと目を開けた。
「すいません、ぐっすり眠ってしまって」
私が謝ると、宮部は安心したのか、少し笑みをもらしたが、すぐに不安げな表情になった。
「誰にも邪魔されず、話ができるところって、ここしか思いつかなかったんです」
宮部の言葉に、私は眼前に迫る怪しい建物に目を細めた。
私は行ったことがないが、あれは話に聞く、ラブホテルと言われる建物に違いない。
確か、お役所への届出は、宿泊施設。公安に風俗施設の届出をしていない場合、おおっぴらに看板を出せない宿泊施設。普通は、恋人同士など、男女が合意の上で肉体関係を持つためにお金を払って部屋を借りる場所。
確かに防音なんだろうし、誰にも邪魔されないだろうし、ゆっくり二人で話は出来るだろうが、目的にあっているからといってモラルをなくして良いということにはならない。前言撤回だ。こいつのどこが心根の優しい良い男だ。ちょっと油断したら、ホテルに女を連れ込もうとするろくでなしと大して変わらないじゃない。警察官のくせに、この男、いったい、何をどう考えたらこういう結果になるのよ!
今にも私の怒りが爆発しそうなのを察したのか、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。あそこじゃありません。周りの道路が一方通行なもので、駐車場の出入り口が風紀の悪い側にあるんですが、ここはカラオケです」
宮部の言葉に私の暴走しかけた怒りはすぐにおさまった。
「こっちが入り口です」
先に立って歩く宮部に続き、私は駐車場の奥にある自動ドアーをくぐった。
確かに、そこはカラオケ店だった。
自動ドアー一枚で、ここまで防音効果があるのかと思うくらい、店内は音で溢れていた。敢えて音と称するのは、鳥を絞めたような叫び声から、野獣の雄叫びのような声まで、ありとあらゆる声が音楽と一緒にあふれかえっているからだ。
宮部は受付を済ませると、私を連れて上階の個室へと向かった。
「まだ、お客さんの入ってないフロアーを開けてもらいました」
どうやら、以前勤務していた署の管轄内にあるお店らしい。
「前に、何度か非公式にというか、個人的にといいましょうか、店でのもめごとで呼び出されたことがあって、ほんのちょっとなんですけど顔がきくんです」
自慢するというでもなく、どちらかといえば、ちょっと照れたように説明すると、宮部は部屋番号を確かめながら、人気のないフロアー奥の個室の扉を開けた。
個室の中は、照明も一番暗く設定されていて、機械の電源も入っておらず、とても静かだった。
入り口でエアコンのスイッチをオンにした宮部は、部屋の照明を一気に目一杯明るくした。
「飲み物は、とりあえずアイスのウーロン茶を頼んでありますけど、他にご希望があれば、すぐに注文しますので、遠慮なく言ってください」
促されるまま、奥のソファ席に腰を下ろした私に、まるで店員のように宮部はメニューを広げて見せた。
「大丈夫です」
私が答えると、宮部は私の向かいにキャスター付きの椅子を動かして座った。
「詳しい話は、お茶が来てからにしましょう」
さっきまでとは違い、宮部の顔は警察官の顔になっていた。
そう、さっきまでの宮部は、警察官ではなく、宮部尚生という一個人として私と接していたんだ。
警察官に戻った宮部の心はがっちりとガードされていた。これは、彼が持って生まれた才能だ。兄と同じ、放射能すら通さない鉛の箱のようなもので心を覆い、私に読まれないようにする。大抵の人は、丸見えかよくても襖越し程度で、頑張ってもベニヤ板程度だ。その程度のガードであれば、私が本気になれば、叩き壊して踏み込むことができる。でも、兄と宮部の才能は特別だ。
別に心が読めなければ、一緒に居ても苦痛ではない。相手が何を考えているか、ぼんやり必要なことだけがわかる生活は、言わば熟年夫婦のあうんの呼吸のような関係だ。でも、心の中まで丸見えになる相手と長く過ごすことは苦痛だ。知りたくないことまで知ってしまうし、相手のプライバシーを知らない間に侵害し続けているという罪悪感も私の中に生まれてしまう。だから、兄の才能を喜んでも疎んだことはない。
ノックの音が部屋に響き、店員が飲み物を運んできた。
「機械の電源は入れなくてよろしいですか?」
店員の疑問は当然だ。
カラオケ店に来て、機械の電源が入ってない部屋で、しかも誰も居ないフロアーで私たちが何をしようとしているのか、疑問に思うのは当たり前のことだろう。
「用があれは、こちらからフロントに連絡します」
宮部は言うと、さりげなく警察手帳を見せた。
これは、怪しい客が来ていますと、店長に相談もせず、スタッフが警察に通報するのを防ぐためらしい。
「飲み物ばかりですいません。ここの食べ物はあまりお勧めできないので」
宮部は言うと、グラスを私の前に押して寄越した。
「戴きます」
私は宮部を安心させるため、グラスを手に取るとアイスウーロン茶を一口飲んだ。
☆☆☆
「崇君が行方不明になったのは、父親が深く関係しています」
グラスを置いた紗綾樺さんは、いきなり本題に入った。
「崇君は、お父さんからデパートの外に止まっているバンに乗っているおじさんがディズニーランドに連れて行ってくれると言われたんです。それで、喜んで一人でデパートを走り出て、バンに乗ったんです」
突然の話の展開に、僕は思わず目を見開いて紗綾樺さんのことを見つめた。
「車を運転していた男性と、崇君に面識はなく、崇君は車に乗る際、本当にこの車でいいのかを確認しています。男性の話し方には訛りはありません」
「ナンバープレートは?」
「はっきりとは見えませんでした。石や植物には、数字とか見分けがつかないんです」
紗綾樺さんの言葉に、質問したいことは沢山あったが、僕は口をつぐんだまま紗綾樺さんの言葉に耳を傾けた。
「つい最近、学校で崇君の友達の誰かが家族でディズニーリゾートに言ったようです。その話を聞いて、崇君は行きたいとお父さんに頼んだみたいです。でも、病気のお母さんの看病があるので無理だと言われ、その代わりにデパートに連れて行ってもらい、おもちゃを買ってもらう約束をしたようです」
そこまで言うと、紗綾樺さんは再びウーロン茶を一口飲んだ。
「お母さんは心から心配していらして、一日も早く崇君が帰ってくるのを待っています。でも、お父さんは違います。後ろ暗い事があって、それが知れるのを怯えています。たぶん、崇君の行方に関してでしょう。・・・・・・ここまでで、質問はありますか? 間違っていることとか」
紗綾樺さんに問われ、僕は事件の資料から起こしてきたメモを取り出した。
実際、ディズニーランドなどという単語は、どこからも出てきていない。
「子供でも、二十四時間経たないと失踪になりませんよね?」
突然の問いに、僕は慌てて紗綾樺さんの方に顔を向けた。
「そうですね。行方不明として扱うには、通常二十四時間の猶予をもってからですが、今回の場合は七歳の子供ですから、行方不明というよりも誘拐の線で初動捜査は行われました」
「そこが誤算だったのかもしれません」
紗綾樺さんは、こめかみを押さえながら言った。
「届け出たのは、お母さんですよね? お父さんではなく」
「そうです。ご主人は、心配ないと、すぐに帰ってくると言っていたそうなんですが、母親のほうが心配して、ご主人に内緒で通報したんです」
「喧嘩になりましたよね?」
紗綾樺さんの言葉に、僕は二人が警察官の前で大喧嘩をしたという話を思い出した。
「それが、すべて計算外だったんでしょう」
「どういうことですか?」
「いまは、どこに行くにも警察の監視つきでしょ? 口座のお金の動きも監視されて、電話も盗聴されている」
「そうです」
「お父さん、どこかで公衆電話を使いませんでしたか?」
紗綾樺さんの問いに、僕はメモにもう一度目を通した。
「あ、あります。携帯の電池が切れたとかで、公衆電話から家に電話したことがあります」
「その時、連絡を取ったんですね」
紗綾樺さんは納得したといった様子で、何度か頷いた。
「この事件は、たぶん公にしてもあまり良いことのない事件です。きっと、みんなが不幸になります」
紗綾樺さんの言葉に、僕は首をかしげた。
病気の母親が子供のことを心配している以上に不幸なことがあるのだろうか?
僕はその問いを飲み込み、紗綾樺さんが言葉を継ぐのを待った。
「大体はわかっています。でも、本当に正しいのか、悩んでいます」
紗綾樺は話すべきか悩んでいるように見えた。
「これから話すことは、確定ではないです。でも、可能性として聞いてください」
紗綾樺さんは始めに断ってから話し始めた。
「森沢さんのご家庭は、奥様の病気のせいでかなり困窮しています。再婚ですし、ご主人の崇君に対する愛情はあまり深くありません。奥様が病気になった最初の頃に、自棄になってギャンブルで作った借金もあり、医療費の支払いも滞りがちです。崇君の学費や、将来のことを考えると、最終的には、亡くなった奥さんの連れ子の世話を一生することになります。それを考えると、崇君の存在はご主人にとっては苦痛以外の何物でもありません。そんな時、子供を欲しいという人が現れます。その人は裕福で、でも子供がありません。ご主人はその家に崇君が養子に入れば、将来の不安もなくなりますし、大切に育ててきた子供を養子に出すのですから、それ相応の謝礼を受けることができます。悪く言えば、子供を売るということになります。たぶん、崇君は今頃、不自由のない生活をしています。お母さんに会えないことを悲しがっているとは思いますが、崇君にも理解できる理由、例えば、お母さんの病気が悪くなってお父さんも家には居ないとか、そんな理由だと思います。崇君は、それで我慢しています。今頃は、迎えに来た新しいお父さんとその奥さんとディズニーリゾートに遊びに行ったり、いろいろなところに行って楽しんでいるはずです。ただ、連絡をしようにも、誘拐として捜査されていると言われ、きっと生きた心地がしないでしょう。だから、多分、関東にはいないと思います。それに、崇君のお父さんは、お金の支払いを受けられず、このまま踏み倒されたら、誘拐犯としてその家族を訴えるつもりです」
そこまでいうと、紗綾樺さんは驚いてぽかんとしている僕のことを見つめた。
「信じられないなら、それでいいです。でも、調べてみてください。学校で、ディズニーリゾートに遊びに行ったのを自慢した子供が先生に叱られています。崇君がいなくなる、何週間か前です」
「わかりました、先生に訊いてみます。ところで、紗綾樺さんは、崇君がどこに居るのかもわかっているんですか?」
僕は、恐る恐る尋ねてみた。
ちょっと困ったような声で私を呼ぶ宮部に、私は驚いてパチリと目を開けた。
「すいません、ぐっすり眠ってしまって」
私が謝ると、宮部は安心したのか、少し笑みをもらしたが、すぐに不安げな表情になった。
「誰にも邪魔されず、話ができるところって、ここしか思いつかなかったんです」
宮部の言葉に、私は眼前に迫る怪しい建物に目を細めた。
私は行ったことがないが、あれは話に聞く、ラブホテルと言われる建物に違いない。
確か、お役所への届出は、宿泊施設。公安に風俗施設の届出をしていない場合、おおっぴらに看板を出せない宿泊施設。普通は、恋人同士など、男女が合意の上で肉体関係を持つためにお金を払って部屋を借りる場所。
確かに防音なんだろうし、誰にも邪魔されないだろうし、ゆっくり二人で話は出来るだろうが、目的にあっているからといってモラルをなくして良いということにはならない。前言撤回だ。こいつのどこが心根の優しい良い男だ。ちょっと油断したら、ホテルに女を連れ込もうとするろくでなしと大して変わらないじゃない。警察官のくせに、この男、いったい、何をどう考えたらこういう結果になるのよ!
今にも私の怒りが爆発しそうなのを察したのか、宮部は慌てて頭を横に振った。
「違います。あそこじゃありません。周りの道路が一方通行なもので、駐車場の出入り口が風紀の悪い側にあるんですが、ここはカラオケです」
宮部の言葉に私の暴走しかけた怒りはすぐにおさまった。
「こっちが入り口です」
先に立って歩く宮部に続き、私は駐車場の奥にある自動ドアーをくぐった。
確かに、そこはカラオケ店だった。
自動ドアー一枚で、ここまで防音効果があるのかと思うくらい、店内は音で溢れていた。敢えて音と称するのは、鳥を絞めたような叫び声から、野獣の雄叫びのような声まで、ありとあらゆる声が音楽と一緒にあふれかえっているからだ。
宮部は受付を済ませると、私を連れて上階の個室へと向かった。
「まだ、お客さんの入ってないフロアーを開けてもらいました」
どうやら、以前勤務していた署の管轄内にあるお店らしい。
「前に、何度か非公式にというか、個人的にといいましょうか、店でのもめごとで呼び出されたことがあって、ほんのちょっとなんですけど顔がきくんです」
自慢するというでもなく、どちらかといえば、ちょっと照れたように説明すると、宮部は部屋番号を確かめながら、人気のないフロアー奥の個室の扉を開けた。
個室の中は、照明も一番暗く設定されていて、機械の電源も入っておらず、とても静かだった。
入り口でエアコンのスイッチをオンにした宮部は、部屋の照明を一気に目一杯明るくした。
「飲み物は、とりあえずアイスのウーロン茶を頼んでありますけど、他にご希望があれば、すぐに注文しますので、遠慮なく言ってください」
促されるまま、奥のソファ席に腰を下ろした私に、まるで店員のように宮部はメニューを広げて見せた。
「大丈夫です」
私が答えると、宮部は私の向かいにキャスター付きの椅子を動かして座った。
「詳しい話は、お茶が来てからにしましょう」
さっきまでとは違い、宮部の顔は警察官の顔になっていた。
そう、さっきまでの宮部は、警察官ではなく、宮部尚生という一個人として私と接していたんだ。
警察官に戻った宮部の心はがっちりとガードされていた。これは、彼が持って生まれた才能だ。兄と同じ、放射能すら通さない鉛の箱のようなもので心を覆い、私に読まれないようにする。大抵の人は、丸見えかよくても襖越し程度で、頑張ってもベニヤ板程度だ。その程度のガードであれば、私が本気になれば、叩き壊して踏み込むことができる。でも、兄と宮部の才能は特別だ。
別に心が読めなければ、一緒に居ても苦痛ではない。相手が何を考えているか、ぼんやり必要なことだけがわかる生活は、言わば熟年夫婦のあうんの呼吸のような関係だ。でも、心の中まで丸見えになる相手と長く過ごすことは苦痛だ。知りたくないことまで知ってしまうし、相手のプライバシーを知らない間に侵害し続けているという罪悪感も私の中に生まれてしまう。だから、兄の才能を喜んでも疎んだことはない。
ノックの音が部屋に響き、店員が飲み物を運んできた。
「機械の電源は入れなくてよろしいですか?」
店員の疑問は当然だ。
カラオケ店に来て、機械の電源が入ってない部屋で、しかも誰も居ないフロアーで私たちが何をしようとしているのか、疑問に思うのは当たり前のことだろう。
「用があれは、こちらからフロントに連絡します」
宮部は言うと、さりげなく警察手帳を見せた。
これは、怪しい客が来ていますと、店長に相談もせず、スタッフが警察に通報するのを防ぐためらしい。
「飲み物ばかりですいません。ここの食べ物はあまりお勧めできないので」
宮部は言うと、グラスを私の前に押して寄越した。
「戴きます」
私は宮部を安心させるため、グラスを手に取るとアイスウーロン茶を一口飲んだ。
☆☆☆
「崇君が行方不明になったのは、父親が深く関係しています」
グラスを置いた紗綾樺さんは、いきなり本題に入った。
「崇君は、お父さんからデパートの外に止まっているバンに乗っているおじさんがディズニーランドに連れて行ってくれると言われたんです。それで、喜んで一人でデパートを走り出て、バンに乗ったんです」
突然の話の展開に、僕は思わず目を見開いて紗綾樺さんのことを見つめた。
「車を運転していた男性と、崇君に面識はなく、崇君は車に乗る際、本当にこの車でいいのかを確認しています。男性の話し方には訛りはありません」
「ナンバープレートは?」
「はっきりとは見えませんでした。石や植物には、数字とか見分けがつかないんです」
紗綾樺さんの言葉に、質問したいことは沢山あったが、僕は口をつぐんだまま紗綾樺さんの言葉に耳を傾けた。
「つい最近、学校で崇君の友達の誰かが家族でディズニーリゾートに言ったようです。その話を聞いて、崇君は行きたいとお父さんに頼んだみたいです。でも、病気のお母さんの看病があるので無理だと言われ、その代わりにデパートに連れて行ってもらい、おもちゃを買ってもらう約束をしたようです」
そこまで言うと、紗綾樺さんは再びウーロン茶を一口飲んだ。
「お母さんは心から心配していらして、一日も早く崇君が帰ってくるのを待っています。でも、お父さんは違います。後ろ暗い事があって、それが知れるのを怯えています。たぶん、崇君の行方に関してでしょう。・・・・・・ここまでで、質問はありますか? 間違っていることとか」
紗綾樺さんに問われ、僕は事件の資料から起こしてきたメモを取り出した。
実際、ディズニーランドなどという単語は、どこからも出てきていない。
「子供でも、二十四時間経たないと失踪になりませんよね?」
突然の問いに、僕は慌てて紗綾樺さんの方に顔を向けた。
「そうですね。行方不明として扱うには、通常二十四時間の猶予をもってからですが、今回の場合は七歳の子供ですから、行方不明というよりも誘拐の線で初動捜査は行われました」
「そこが誤算だったのかもしれません」
紗綾樺さんは、こめかみを押さえながら言った。
「届け出たのは、お母さんですよね? お父さんではなく」
「そうです。ご主人は、心配ないと、すぐに帰ってくると言っていたそうなんですが、母親のほうが心配して、ご主人に内緒で通報したんです」
「喧嘩になりましたよね?」
紗綾樺さんの言葉に、僕は二人が警察官の前で大喧嘩をしたという話を思い出した。
「それが、すべて計算外だったんでしょう」
「どういうことですか?」
「いまは、どこに行くにも警察の監視つきでしょ? 口座のお金の動きも監視されて、電話も盗聴されている」
「そうです」
「お父さん、どこかで公衆電話を使いませんでしたか?」
紗綾樺さんの問いに、僕はメモにもう一度目を通した。
「あ、あります。携帯の電池が切れたとかで、公衆電話から家に電話したことがあります」
「その時、連絡を取ったんですね」
紗綾樺さんは納得したといった様子で、何度か頷いた。
「この事件は、たぶん公にしてもあまり良いことのない事件です。きっと、みんなが不幸になります」
紗綾樺さんの言葉に、僕は首をかしげた。
病気の母親が子供のことを心配している以上に不幸なことがあるのだろうか?
僕はその問いを飲み込み、紗綾樺さんが言葉を継ぐのを待った。
「大体はわかっています。でも、本当に正しいのか、悩んでいます」
紗綾樺は話すべきか悩んでいるように見えた。
「これから話すことは、確定ではないです。でも、可能性として聞いてください」
紗綾樺さんは始めに断ってから話し始めた。
「森沢さんのご家庭は、奥様の病気のせいでかなり困窮しています。再婚ですし、ご主人の崇君に対する愛情はあまり深くありません。奥様が病気になった最初の頃に、自棄になってギャンブルで作った借金もあり、医療費の支払いも滞りがちです。崇君の学費や、将来のことを考えると、最終的には、亡くなった奥さんの連れ子の世話を一生することになります。それを考えると、崇君の存在はご主人にとっては苦痛以外の何物でもありません。そんな時、子供を欲しいという人が現れます。その人は裕福で、でも子供がありません。ご主人はその家に崇君が養子に入れば、将来の不安もなくなりますし、大切に育ててきた子供を養子に出すのですから、それ相応の謝礼を受けることができます。悪く言えば、子供を売るということになります。たぶん、崇君は今頃、不自由のない生活をしています。お母さんに会えないことを悲しがっているとは思いますが、崇君にも理解できる理由、例えば、お母さんの病気が悪くなってお父さんも家には居ないとか、そんな理由だと思います。崇君は、それで我慢しています。今頃は、迎えに来た新しいお父さんとその奥さんとディズニーリゾートに遊びに行ったり、いろいろなところに行って楽しんでいるはずです。ただ、連絡をしようにも、誘拐として捜査されていると言われ、きっと生きた心地がしないでしょう。だから、多分、関東にはいないと思います。それに、崇君のお父さんは、お金の支払いを受けられず、このまま踏み倒されたら、誘拐犯としてその家族を訴えるつもりです」
そこまでいうと、紗綾樺さんは驚いてぽかんとしている僕のことを見つめた。
「信じられないなら、それでいいです。でも、調べてみてください。学校で、ディズニーリゾートに遊びに行ったのを自慢した子供が先生に叱られています。崇君がいなくなる、何週間か前です」
「わかりました、先生に訊いてみます。ところで、紗綾樺さんは、崇君がどこに居るのかもわかっているんですか?」
僕は、恐る恐る尋ねてみた。