揺蕩うもの
貧相な部屋には似合わない電気ケトルでお湯を沸かし、急須の代わりのティーポットにお茶のパックを放り込み煮え立った熱湯を注いだ。さやが怖がるから、このアパートの部屋には火の出るものは置かれていない。
もともと客の来る予定などない部屋だから、奴を部屋にあげてみたものの、実際は座布団一つ用意がない。
食器棚代わりに使っているカラーボックスから二人分のマグカップを取り出し、流し台の下に押し込んであった携帯電話会社から貰った犬の写真がプリントされているマグカップを取り出し、手早く洗って使えるようにした。
お盆なんてしゃれたものもないし、使う必要もない距離なので、半身振り向きながら折り畳み式のちゃぶ台の上にマグカップを並べ、最後にティーポットを手にとった。一度おいてから注ぐのも面倒だったので、そのままちゃぶ台に向き直り並べたカップにお茶を注いだ。
湯気とともに、香ばしい煎り麦の香りが部屋に広がっていった。
「どうぞ」
一応、客ではあるので、奴に一番にお茶を勧めた。
俺が茶を勧めたタイミングで、さやは自分のカップを手元に引き寄せ、俺のカップが正面に残された。
「いただきます」
奴は礼儀正しくお礼を言ってからマグカップを手に取った。しかし、八分目まで注がれた熱湯同然の麦茶はそう簡単に口をつけられるような代物ではない。
それをよく知っているという事もあり、さやはいつものように『この香り好き』と言って、マグカップから漂う湯気と香りを楽しむだで口を付けようとはせず、俺と奴との間にある緊張感など全く感じていないように和んでいた。
俺は最初から半分以下しか注いでいない自分のマグカップを手に取ると、やけどに気を付けながら一口すすった。
さあ、開戦だ。
「昨夜も妹と一緒でしたよね?」
俺が問いかけると、奴は慌ててカップから手を離した。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
何を謝っているのか知らないが、奴は額がマグカップに当たりそうな勢いで頭を下げた。
「あなた、警察官でしたよね?」
俺の問いに、奴は懐から警察手帳を取り出して見せた。
「宮部尚生と申します。階級は巡査部長です」
見せられた警察手帳は、両親の事故や、あの災害の時に何度も見せられたものと同じで、偽警官ではなさそうだ。
「宮部さん、あなた、いったい何が目的で妹を連れまわしているんですか?」
語気を荒くしてて訪ねると、奴が後ろに下がった。『逃げるのか?』と、思わず腕をつかもうとした俺の前で、いきなり奴は床に両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。紗綾樺さんとは、結婚を前提にお付き合いさせて戴いております」
俺には奴の言っている言葉の意味が理解できなかった。それだけ『交際』という言葉も、『結婚』という言葉も、さやからは縁遠いものだったからだ。
本当なら、さやだって同級生達と変わらず、二十歳を過ぎたら何時でも結婚適齢期なんて言う、近所のジジババが自分達のことのように楽しげに話す噂話のネタにされてもおかしくない歳だ。
兄の贔屓目と言われてしまえばそれまでだが、実際、中学の頃から男子に告白されて困っていると相談されたこともある。
でも、今は違う。あの地震と津波がさやからすべてを奪い、さやを変えてしまった。
「は? あんた一体何を言ってるんだ?」
驚くというよりも、呆れる俺の腕をさやがつかんだ。
「本当なの」
感情のこもっていないさやの言葉からは、真偽を確かめることができない。
「そんなこと、いきなり言われて、はいそうですかって信じられるわけがないでしょう」
俺はさやの言葉を聞かなかったことにして、宮部に言い放った。
「確かに、お兄さんのお気持ちはわかります。この交際は、自分が紗綾樺さんに一目ぼれして、お付き合いして戴いているんです。でも、自分は結婚を前提とした、清く正しいお付き合いを続けていきたいと思っています」
奴の言葉に、怒りが燃え上がった。
二回目のデートでさやをホテルに連れ込んでおいて、何が『清く正しい』お付き合いだ。ふざけるな!
思った瞬間、左手がちゃぶ台を思いっきり叩いていた。
「最近の警察官は、平気で嘘をつくんですね。あなたが、今日、妹をどこへ連れて行ったかなんて、わかってるんですよ!」
普通に座っていてくれたら、胸倉をつかむくらいしてやりたかったのに、奴はまだ土下座したままだった。
「カラオケです」
「カラオケ」
奴と、さやが、ほぼ同時に答えた。
「さや、お前がカラオケに行かないことくらい、俺が一番よく知ってるんだ」
俺が言うと、さやは緊張感のない態度でお茶を一口飲んだ。
「結局、機械の使い方とか、いろいろ教えてもらったけど、歌を知らないから、お話だけして帰って来たの」
さやのことばに、奴が頭を上げた。
「ほんとうです。お話しかしていません」
いや、別にカラオケに行ったんなら、あんたは歌を歌ったってかまわないんだよ、そんなことをとがめる気はないんだから。でも、一番の問題は、二人して俺を騙そうとしているところなんだよ。
苛立ちを抑えるため、俺は香ばしい麦の香りを大きく吸い込んでお茶をすすった。
「どうしてそんなに怒っているの? 二人っきりでカラオケに行くのは悪い事なの?」
不思議そうにさやが尋ねた。
「カラオケなら別にいいんだよ。まあ、密室で二人っきりというのは問題がないとは言えないが、今の問題は、二人が口裏を合わせて嘘をついているってことなんだよ」
「嘘じゃありません。いまお見せします」
奴は言うと、自分のスマホを取り出し、地図を開いて場所を説明した。
確かに、俺がさやの居場所を調べた時に表示された場所のすぐ隣だった。
「店の裏側がちょっと風紀の悪い場所なんですが、店長が知り合いで予約が取りやすいので自分はよく利用するんです。あ、証拠のレシートがどこかに・・・・・・」
地図まで見せられて説明されると、これ以上追及するための根拠もないので、俺は仕方なく怒りの矛をおさめるしかなかった。
「本当に、お兄さんにご挨拶もしないまま交際を始めて申し訳ありません」
奴は床に頭をこすりつけそうなくらい平身低頭していた。
「頭をあげてください。状況は分かりました」
俺は言うと、さやの方に向き直った。
「さや、本当に、この人と付き合うつもりなのか?」
俺の問いに、さやはこくりと頷いた。
「さや、交際するっていう事がどういうことかわかっているのか? その、大人の男と女が交際するってことがどういう意味か・・・・・・」
俺の言葉が露骨だったのか、奴の顔が真っ赤になったが、さやは何のことかわらないと言った様子で、キョトンとして俺の事を見つめた。
「さや、他人と付き合うってことがどれだけ大変か、お前はよくわかってないんだ」
俺は言うと、さやの手を取った。
さやの手は冷たく冷え切っていた。あの日以来、さやの手はいつも冷たい。以前の、温かかった手とは全く違う。さやの手を握る度、俺は本当はさやも失ってしまっていて、さやが隣にいる夢を見ているだけなんじゃないかと不安になる。
「さや・・・・・・。お前は、人と違うんだ。わかっているだろ」
俺は説得するように話しかけた。
「紗綾樺さんの力の事なら、自分は全面的に信じていますし、知っています」
俺とさやの会話に、奴が割り込んできた。まったく、なんて奴だ。怒りが腹の底から溢れてくる。
「さあ、どうでしょうね。あなたは、妹の何を知ってるんですか?」
俺はさやの手を握ったまま奴に再び向き直った。こうして、ずっと握り続けていたら、いつか昔の温かいさやの手に戻るんじゃないかと、俺は今も思っている。
もともと客の来る予定などない部屋だから、奴を部屋にあげてみたものの、実際は座布団一つ用意がない。
食器棚代わりに使っているカラーボックスから二人分のマグカップを取り出し、流し台の下に押し込んであった携帯電話会社から貰った犬の写真がプリントされているマグカップを取り出し、手早く洗って使えるようにした。
お盆なんてしゃれたものもないし、使う必要もない距離なので、半身振り向きながら折り畳み式のちゃぶ台の上にマグカップを並べ、最後にティーポットを手にとった。一度おいてから注ぐのも面倒だったので、そのままちゃぶ台に向き直り並べたカップにお茶を注いだ。
湯気とともに、香ばしい煎り麦の香りが部屋に広がっていった。
「どうぞ」
一応、客ではあるので、奴に一番にお茶を勧めた。
俺が茶を勧めたタイミングで、さやは自分のカップを手元に引き寄せ、俺のカップが正面に残された。
「いただきます」
奴は礼儀正しくお礼を言ってからマグカップを手に取った。しかし、八分目まで注がれた熱湯同然の麦茶はそう簡単に口をつけられるような代物ではない。
それをよく知っているという事もあり、さやはいつものように『この香り好き』と言って、マグカップから漂う湯気と香りを楽しむだで口を付けようとはせず、俺と奴との間にある緊張感など全く感じていないように和んでいた。
俺は最初から半分以下しか注いでいない自分のマグカップを手に取ると、やけどに気を付けながら一口すすった。
さあ、開戦だ。
「昨夜も妹と一緒でしたよね?」
俺が問いかけると、奴は慌ててカップから手を離した。
「はい、ご心配をおかけして申し訳ありません」
何を謝っているのか知らないが、奴は額がマグカップに当たりそうな勢いで頭を下げた。
「あなた、警察官でしたよね?」
俺の問いに、奴は懐から警察手帳を取り出して見せた。
「宮部尚生と申します。階級は巡査部長です」
見せられた警察手帳は、両親の事故や、あの災害の時に何度も見せられたものと同じで、偽警官ではなさそうだ。
「宮部さん、あなた、いったい何が目的で妹を連れまわしているんですか?」
語気を荒くしてて訪ねると、奴が後ろに下がった。『逃げるのか?』と、思わず腕をつかもうとした俺の前で、いきなり奴は床に両手をついて頭を下げた。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。紗綾樺さんとは、結婚を前提にお付き合いさせて戴いております」
俺には奴の言っている言葉の意味が理解できなかった。それだけ『交際』という言葉も、『結婚』という言葉も、さやからは縁遠いものだったからだ。
本当なら、さやだって同級生達と変わらず、二十歳を過ぎたら何時でも結婚適齢期なんて言う、近所のジジババが自分達のことのように楽しげに話す噂話のネタにされてもおかしくない歳だ。
兄の贔屓目と言われてしまえばそれまでだが、実際、中学の頃から男子に告白されて困っていると相談されたこともある。
でも、今は違う。あの地震と津波がさやからすべてを奪い、さやを変えてしまった。
「は? あんた一体何を言ってるんだ?」
驚くというよりも、呆れる俺の腕をさやがつかんだ。
「本当なの」
感情のこもっていないさやの言葉からは、真偽を確かめることができない。
「そんなこと、いきなり言われて、はいそうですかって信じられるわけがないでしょう」
俺はさやの言葉を聞かなかったことにして、宮部に言い放った。
「確かに、お兄さんのお気持ちはわかります。この交際は、自分が紗綾樺さんに一目ぼれして、お付き合いして戴いているんです。でも、自分は結婚を前提とした、清く正しいお付き合いを続けていきたいと思っています」
奴の言葉に、怒りが燃え上がった。
二回目のデートでさやをホテルに連れ込んでおいて、何が『清く正しい』お付き合いだ。ふざけるな!
思った瞬間、左手がちゃぶ台を思いっきり叩いていた。
「最近の警察官は、平気で嘘をつくんですね。あなたが、今日、妹をどこへ連れて行ったかなんて、わかってるんですよ!」
普通に座っていてくれたら、胸倉をつかむくらいしてやりたかったのに、奴はまだ土下座したままだった。
「カラオケです」
「カラオケ」
奴と、さやが、ほぼ同時に答えた。
「さや、お前がカラオケに行かないことくらい、俺が一番よく知ってるんだ」
俺が言うと、さやは緊張感のない態度でお茶を一口飲んだ。
「結局、機械の使い方とか、いろいろ教えてもらったけど、歌を知らないから、お話だけして帰って来たの」
さやのことばに、奴が頭を上げた。
「ほんとうです。お話しかしていません」
いや、別にカラオケに行ったんなら、あんたは歌を歌ったってかまわないんだよ、そんなことをとがめる気はないんだから。でも、一番の問題は、二人して俺を騙そうとしているところなんだよ。
苛立ちを抑えるため、俺は香ばしい麦の香りを大きく吸い込んでお茶をすすった。
「どうしてそんなに怒っているの? 二人っきりでカラオケに行くのは悪い事なの?」
不思議そうにさやが尋ねた。
「カラオケなら別にいいんだよ。まあ、密室で二人っきりというのは問題がないとは言えないが、今の問題は、二人が口裏を合わせて嘘をついているってことなんだよ」
「嘘じゃありません。いまお見せします」
奴は言うと、自分のスマホを取り出し、地図を開いて場所を説明した。
確かに、俺がさやの居場所を調べた時に表示された場所のすぐ隣だった。
「店の裏側がちょっと風紀の悪い場所なんですが、店長が知り合いで予約が取りやすいので自分はよく利用するんです。あ、証拠のレシートがどこかに・・・・・・」
地図まで見せられて説明されると、これ以上追及するための根拠もないので、俺は仕方なく怒りの矛をおさめるしかなかった。
「本当に、お兄さんにご挨拶もしないまま交際を始めて申し訳ありません」
奴は床に頭をこすりつけそうなくらい平身低頭していた。
「頭をあげてください。状況は分かりました」
俺は言うと、さやの方に向き直った。
「さや、本当に、この人と付き合うつもりなのか?」
俺の問いに、さやはこくりと頷いた。
「さや、交際するっていう事がどういうことかわかっているのか? その、大人の男と女が交際するってことがどういう意味か・・・・・・」
俺の言葉が露骨だったのか、奴の顔が真っ赤になったが、さやは何のことかわらないと言った様子で、キョトンとして俺の事を見つめた。
「さや、他人と付き合うってことがどれだけ大変か、お前はよくわかってないんだ」
俺は言うと、さやの手を取った。
さやの手は冷たく冷え切っていた。あの日以来、さやの手はいつも冷たい。以前の、温かかった手とは全く違う。さやの手を握る度、俺は本当はさやも失ってしまっていて、さやが隣にいる夢を見ているだけなんじゃないかと不安になる。
「さや・・・・・・。お前は、人と違うんだ。わかっているだろ」
俺は説得するように話しかけた。
「紗綾樺さんの力の事なら、自分は全面的に信じていますし、知っています」
俺とさやの会話に、奴が割り込んできた。まったく、なんて奴だ。怒りが腹の底から溢れてくる。
「さあ、どうでしょうね。あなたは、妹の何を知ってるんですか?」
俺はさやの手を握ったまま奴に再び向き直った。こうして、ずっと握り続けていたら、いつか昔の温かいさやの手に戻るんじゃないかと、俺は今も思っている。