揺蕩うもの
 重い野菜の入った袋をぶら下げながら、俺は玄関の扉の鍵が開いていることに首を傾げた。
 俺が出勤するときは、当然、さやが寝ているのだから三度は鍵がかかっていることを確認している。それに、もしさやが仕事に行ったとしたら、さやも鍵をかけることは忘れなくなっている。まあ、忘れたとしても盗まれるようなものもないが。それよりも鍵が開いているという事は、最悪、誰かが訪ねて来たのでさやが鍵を開けたまま閉め忘れ、部屋の奥で寝ている可能性があるという事だ。
 俺は扉を開けると、すぐに見慣れない靴が揃えられているのに気付いた。
 まさか、押し売りのセールスマンではないだろうが、さやが誰かを部屋に入れるとは考えられない、とすると、押し込まれた? いや、押し込み強盗が丁寧に靴を玄関で脱いでそろえておくとは思えない。じゃあ、誰だ?
 俺は警戒心を解かないまま部屋に踏み込んだ。
 相変わらず薄暗い部屋の奥に人影が見え、さやの声も聞こえる。
 ほんの三歩進んだだけで、男がさやを抱きしめているのが見えた。
 しかも、立ち聞きしたいわけでもないのに、この距離になると二人の言葉もはっきり聞こえてしまう。

『・・・・・・紗綾樺さんが悲しい時も、寂しい時も、嬉しい時も。ずっと一緒です』
『ありがとう』

 俺の目の前で、さやの腕が男の体に回されていく。それは、男に一方的にさやが抱きしめられているのではない。さやの意志でその腕が男に回され、見間違いではなく、二人は抱き合っているのだ。
 あれほど人に触れるのも、触れられるのも嫌がっていたさやが、自分の意志で相手の体に腕を回している。あのさやが・・・・・・。
 今目にしていることが夢ではなく現実だとしたら、相手はあの宮部と言う男に違いない。
 あの男は、俺がどれだけ頑張っても成しえなかった事を、さやに人間らしい感情と心をとりもどさせるという事を、さやに感情表現させるということをこんな短時間で、まるで大したことではないかのように成しえたのだ。そう思った瞬間、俺の手から買い物袋が滑り落ち、激しい音をたてた。
 驚いたように振り向いたあの男は、俺の中に何を見ただろう。
 怒り? 嫉妬? 驚愕?
 たぶん、どれも正しくて、どれも間違っている。
 俺は確かに驚いたし、俺が何年かけても取り戻せなかったさやの感情をいとも簡単に取り戻した奴に嫉妬したし、俺に何の断りもなく、俺の不在の部屋に上がり込んでさやと親密な関係になろうとしていることにも腹を立てたし、さやが奴に心を許しているという事を知って驚いてもいる。
 でも、違う。本当は、俺は嬉しいんだ。人形のように感情のなかったさやが、感情を少しでも取り戻せたことが、何よりも嬉しかった。
 じっと見つめる俺の前で、奴は慌ててさやから体を離すと俺の方に向き直った。
「事前の承諾なく、勝手にお邪魔して申し訳ありません」
 奴は言うと、茫然としている俺の前で大して綺麗でもない床に額をこすりつけそうにして頭を下げた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
 布団の上から言うさやは、心なしか笑みを浮かべていたが、恋人と抱き合っていたところを兄に見られたと事を恥じらう様子は全くなかった。
 あまりにも温度差がある二人の態度ではあるが、あの日以来、初めて聞く温かみのあるさやの言葉と笑顔だった。それは、いつもの棒読みのような言葉とは大きく違っていたし、能面のような人形のような表情とも違った。
「ただいま、さや。宮部さんも、むさくるしいところへ、いらっしゃい」
 俺は何事もなかったように言うと、落ちた野菜を拾い集めた。
 すると、奴は慌てて野菜を拾うのを手伝い始めた。
「大したものは作れないですが、夕飯食べて行きますか?」
 野菜を手にした俺が言うと、奴は驚いたように俺の顔を見つめてきた。
 その瞳には、困惑が浮かんでいた。
 なぜ俺が怒っていないのか、いきなり食事に誘うなんて、どういう心境なのだろうかと、戸惑っているのだ。これくらい、さやでなくても俺にもわかる。
「お兄ちゃん、夕飯なに?」
 さやはいつもの格好で布団から這い出てきた。
 よく見れば、下着も服も、朝俺が置いたまま綺麗にそのままになっている。
 マジか! さやの奴、シャツの下は何も来てないのか!
 俺は手に持った野菜を全て放り投げ、頭を抱えて、同時に目を覆いたかった。
 玄関の扉を開けたのだろうから、下着ぐらいは身に着けているのだろうと思っていたが、着替えていないことから考えれば、昨夜寝て起きたままの姿でいるのは当たり前だ。だいたい、さやにとって着替えるというのは、この部屋の外に出るときの為だけという解釈らしく、この部屋にいる限り、確かに率先して下着どころかそれ以外の物を身に着けようとしたのを見たことがない。
 こいつ思ったよりも理性的で、自制心が強いらしいなと、俺は初めて宮部と言う男を見直した。
「カレーライスか、野菜炒めだな」
 俺は手に取った玉ねぎを見せながらさやに答えた。
「オニオングラタンスープは?」
「だから、それはオーブンがないとできないんだってば。カレーライスか野菜炒めであきらめてくれ」
 俺は言うと、さやの返事を待たずに背を向けると冷蔵庫を開けた。
「じゃあ、カレーライス」
 さやの答えに、俺は『わかった』と答えると、キャベツを冷蔵庫にしまい、かわりにニンジンを冷蔵庫から取り出した。
「宮部さん、食べて行きますよね?」
 別に圧力をかけるつもりはなく、仕事が終わって腹が減っているだろうという心遣い、単なる武士の情けのようなものだ。
「あ、ありがとうございます。でも、急なことで、ご迷惑じゃありませんか?」
 遠慮がちに答える奴に、俺は軽く後ろを振り向いて笑って見せた。
「さやの恋人なんだから、遠慮しなくてもいいですよ。最近はずっと引きこもりだったから、さやもあなたに会えて嬉しいんでしょう」
 心なしか、奴を見つめるさやの表情が柔らかく微笑んでいるのが、かなり頭にくるが、それは胸の奥にしまっておくことにした。
「じゃあ、お言葉に甘えて、ご馳走にならせていただきます」
 奴が答えると、さやは太ももが露わになるのも気にせず、ちょこんと奴の隣に座った。
「あ、あの、紗綾樺さんはお休みになっていた方が、良いかと思います」
 ハッキリ言って兄の俺でさえ目のやり場に困る、悩殺セクシー姿のさやにドギマギしているのがわかるので、震える奴の声を聴きながら俺は、さすがに、これだけ毎日続くと、俺はもうドギマギしたりしないんだぜと、良くわからない優越感を抱きながら笑いをかみ殺した。
「さや、パジャマなら寝てろ。起きるならちゃんと着替えてきなさい。宮部さんはお客様で家族じゃないんだからな」
 俺が声をかけると『わかった』という声がして、さやが奥の部屋に入っていく気配がしたが、当然、襖を閉める気配はない。
 次の瞬間、何が起こるのかを察したらしい奴が猛スピードで襖を閉めるバシンという音が部屋に響いた。
 いくら結婚を前提にお付き合いとか言っても、家でのさやを知らなかったわけだから、たぶん驚きの連続だったんだろうなと、俺は心の中で意地悪な笑みを浮かべたりして見た。
 だから、いきなり人の気配を隣に感じた時は、ドキリとした。
「あの、お手伝いします」
 奴は言うと、すっと俺の隣に立った。
「いや、お客様なんで、座っててください」
 俺は答えると、水を入れた鍋をクッカーにかけ、手早く野菜の皮をピーラーで剥いた。
「仕込みだけしたら、すぐにお茶をいれますよ」
 言ってから、俺はいつもの位置にポットがないことに気付いた。
「あ、お茶でしたら、自分が・・・・・・」
 言葉の先は聞かなくても分かる。さやにはお茶を煎れる準備はできても、煎れたことは一度もない。
「お茶を煎れてくださってありがとうございます」
 俺はお礼を言うと、やはりさやの事を少し宮部に説明しておくべきだと考えた。
「さやは、家事はできないんです」
 俺が言うと、宮部は何も言わず隣に立って俺の話を聞いていた。
「火と刃物を怖がるんで、うちではIHと電気ケトルを使ってます。刃物は、さやが見えないようにして使います。だから、出先でキャンプファイヤーみたいなものとか、松明とかあった時には気遣ってやってください」
「じゃあ、暖炉のあるお洒落なマナーハウス風レストランはダメですね」
 奴は残念そうでいて、少し安心したように言った。
 たぶん、マスコミでも取り上げられている東京の中心にあるとは思えない本格的マナーハウス、確か二人でディナーすると万札が超音速で飛んでいなくなり、翌日には消費者金融に駆け込まないといけなくなるという、恐怖だけれど、ロマンチックさは桁外れ、ナイトのようにプロポーズすれば、断られることはないという、ものすごい売り込みのデートスポットにさやと行きたいような、ねだられたら間違いなく消費者金融行きだったという、そんな複雑な感情が織りなす表情だったのだろう。
 何しろ、さやの幸せ第一、恋人いない記録をダントツ更新中の俺でさえ、あの広告を見た瞬間、俺には似合わないけど、あんな素敵なところに恋人と行けたらと思ったくらいだ。さやという恋人がいる奴が考えないわけがない。
 正直、七割引きになるなら、良い経験になるからとさやを連れて行ってやるところだが、定価では手も足も出ない。
「いつも、お兄さんが食事を用意されているんですよね?」
 職業柄なのか、食事に誘われたからの気安さからなのか『お兄さん』と俺を呼ぶ奴に、俺は一言『お前の兄貴になった覚えなんぞないぞ』と言ってやりたかったが、話を脱線させたくなかったので、そのまま素直に返事をした。
「ええ、そうです。帰ってきて夕飯を作って、出かける前にさやの朝食を用意して、それから、飲み物もポットに入れておきます」
 俺がこんな事を話すのは、紗綾と付き合って結婚するという事がどういうことなのか、それをちゃんと理解して貰いたかったからだ。
 この男の事だから、ありえないとは思うが、良いとこ取りされて、いざとなったら家事ができない、刑事の妻にはふさわしくないなんて言って、出世につながりそうな上司からの縁談に飛びついてさやの事を放り出したりされたくないから。もし、無理だと思うなら、今のうちに現実を理解して身を引いてもらいたいから。
「うちは、母一人、子一人なんです」
 奴の言葉に、俺は思わず奴の方を向いてしまった。
「あ、紗綾樺さんから聞いてますか? 今の部署への異動を受けるかどうか悩んで、悩んで、歩いてたら偶然に紗綾樺さんの占いの館の列に並んじゃったんです。で、馬鹿みたいに普通の会社員のフリして占ってもらったんです。そうしたら、紗綾樺さん怒って。でも、移動しても怪我もしないし、母を悲しませることもないから、心配ないって言ってくれたんです。それで、今の部署に異動したんです」
 初めて聞く話だったが、これが二人の出会いと言うわけか。でも、あのさやが怒った? さやは、占いは感情がいらないと言っていたのに、こいつには怒ったりしたのか。
「本当に、怪我もせず、ずっと続けてこれました」
 俺の前でも憚ることなく、さやの能力を信じているとこいつが言うのは、そういう理由だったのかと、俺は改めて納得した。
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