揺蕩うもの
「最近は仕事が忙しくて料理をすることはないですが、これでも昔は働いて帰ってくる母のために料理してたんですよ。詰襟の学生服着て、スーパーのお買い得品やタイムセールを近所のおばさんたちと争ってたんです。だから、もしお兄さんが風邪をひいたり、仕事でどうしても手が足りないときは声をかけてください。自分がお手伝いしますから」
 正直、とてもありがたい申し出だった。
 俺一人だと、インフルエンザで高熱を出して寝込んでいてもさやは、おかゆ一つ作れない。買い物には行かれるが、細かく何処で何を買うかを指示しておかないと買えずに戻ってくることもある。
 そういう時のさやは、まるで檻に入れられた野生動物のようで、水しか飲まず、食べ物も口にしないで、ただじっと俺の傍に付き添っている。
 もし、こいつが手伝いに来てくれれば、俺が病気になってもさやにちゃんと食事をさせてくれる。
 そこまで考えてから、俺はハタと現実に立ち返った。
「お申し出はありがたいですけど、警察官って、そんなに簡単に休み取れたりするんですか?」
 俺の疑問に、奴の顔が一瞬のうちにひきつった。
 そうだろう。たかが派遣の俺とは違い、公務員の奴には有休もボーナスも、夏休みも、正月休みだってあるんだろう。たぶん、忌引きだって有給のはずだ。
「その時の状況にもよりますが、融通がきくこともありますし、きかないこともあります。担当している案件次第です」
 まあ、当然だろう。
 いくら公務員が優遇されているからと言って『デートの時間なんで~』と言って、捜査中の警察官が帰宅したら、即日マスコミネタになる不祥事だろう。だとしたら、恋人が病気、いや正確に言うと、恋人の兄が病気なので早退なんて、できないだろう!
 期待させやがって!
 俺は腹立ちまぎれに沸騰している湯の中に肉を投げ込んだ。
「あれ、油でお肉と野菜を炒めないんですか?」
 奴は驚いたように俺に問いかけてきた。
「あー、それカレーのルーの箱に書いてある作り方だろ?」
 俺は何年も前に自分でも読んだことのある箱の裏に書かれているカレーの作り方の事を思い出しながら答えた。
「はい。自分は、ずっとあの箱に書いてある作り方で作っていたので・・・・・・」
 奴は少し恥ずかしそうに言った。
「肉の味を肉の中に留めて送って意味では、先に外側を油でいためておくのは良い方法だと思うけど、家庭でそれやったら肉が硬くて歯が立たなくなるだろ。だから、沸騰した湯に肉を入れて、野菜と一緒に煮るんだ。そうすると、時間さえかければ、結構安い肉でも柔らかくてトロトロにできるし、油を使わないから片付け貰く、更に健康にも良い。良い事づくめってやつだ」
 俺は自慢げに言うと肉の外側が完全に火が通って色が変わったの確認しながらニンジンと玉ねぎを入れた。
「そうなんですか。いっつも、あの堅い肉が恨めしくて、意地になって噛んで顎が痛くなったこと、何度もあるんですよ。何しろ、牛肉は一番安いのしか買ったことないですから」
 奴は言うと、少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「普通、そうだろ。松坂牛だのなんだのって、庶民の手が届く値段じゃないからな。うちも家計がピンチになったら、冷凍のシーフードミックスを使った海鮮ホワイトシチューや大量作りできるトン汁を冬場は連発するからな」
 俺は自慢することでもないのに、思わずしゃべり続けた。
「あっ! やっぱりジャガイモって、水にさらさないといけないんですか?」
 話しながらジャガイモの皮をむいてカットし、水を入れたボールに転がり入れているのを見た奴が問いかけてきた。
「俺はそうさやに言われた。ジャガイモは見ずにさらしてから使えって。だから、そうしてる」
 俺が言うと、奴が俺の事を不思議そうに見つめた。
 ああそうか、俺は奴にさやは家事ができないと教えたばっかりだったっけ。
「昔はできたんです。亡くなった母とよく並んで台所に立ってました。でも、あの日からすべてが変わってしまった」
 俺はそこで言葉を切った。奴にさやの過去に触れてもらいたくない。さやにつらい思い出を取り戻させたくないから、奴にさやの過去を教えたくないから、俺はそれ以上続けなかった。
「あの日って、あの震災の事ですよね?」
「やめてください。この部屋で、いや、さやの前でそのことは話さないでください。過去は詮索しないと、約束しましたよね?」
 俺が語気を強めると、奴は少し目を伏せた。
「すいません、詮索するつもりはなかったんです。以後、気を付けます」
 奴がすぐに謝ったので、俺はそれ以上なにも言わず、ジャガイモの水をきり鍋に入れた。
「さやを苦しめたくないんです。わかってください」
 俺は言うと鍋に蓋をした。
「座りましょうか、なんか男が二人でこの狭い台所に立ってるのって、サマにならないですから。あ、ちょっと、さやの様子を見てきます」
 俺は言うと一気に部屋を横切って襖を少し開けて中を覗いてみた。
 さやは奴が来ていることも俺が帰ってきたことも忘れているのか、着替えはしたようだったが、うつろな瞳で窓の外、空を見上げていた。
「さや? 着替えたのか?」
 声をかけると、さっきまでの色どりを取り戻したさやではなく、色のない世界に住んでいるようなさやが振り向いた。
「具合、悪いのか?」
 こういう急激な変化は今までも何回もあった。一緒にファミレスに歩いていくとき、仕事のない日に買い物に行ったり、楽しいと感じているように見えたさやがいきなり変わる。
「宮部さん来てるの忘れてないよな?」
 俺の問いにさやは頷くだけで言葉では返事をしなかった。
 仕方がないので、俺は奴の方に向き直った。
「すいません、さやの奴、すこし本調子じゃないみたいです」
 さやのような状態を表現する言葉を俺も知らない。病気ではないし、いや、病気なのかもしれないが、記憶障害以外の病気を指摘されたことはない。
「もしかして、紗綾樺さん鬱なんじゃないですか?」
 奴の言葉に、俺は右手を顎にやりながら考えた。
「記憶障害からくる鬱的な状態と言われたことはあります。もう、ずっと前の事です。でも、薬が効くわけでもないですし、カウンセリングが効くわけでもなくて」
「そうですか。すいません、立ち入ったことを訊いてしまって」
 俺の怒りを恐れてか、奴はすぐに引き下がった。
「いや、鬱なら治療できるし、いっそその方がいいんです。誰にも分らない状態より、治る確率がある方が俺としても嬉しいし」
 本音だった。どんな難しい病気だって、治療できる方法があるならその方がいい。治療法も何もわからない今の状態よりは。
「あの、紗綾樺さんとお話ししても良いですか?」
「どうぞ、俺は料理しちゃいますから」
 俺は言うとクッカーの前に戻った。
 蓋を開けると野菜の茹った良い香りがしている。俺は鍋をクッカーからおろし専用の保温容器に入れた。
 帰宅してからの料理時間を短くしたいという俺の願望を叶えてくれる神業のような鍋セット。立ち寄ったショッピングセンターで大々的に宣伝をしているのを見て欲しいと思うと同時にその値段に打ちのめされたが、地道にネットで探して格安でゲットしたシャトルシェフ。この画期的な鍋のおかげで俺の帰宅後の生活は格段に楽になった。
 まあ、IHクッカーにしろ、希望小売価格が万を超えるこの鍋がこんなボロアパートにあるのは、どう見ても場違いだ。こういった高級な台所用品は、洒落たシステムキッチンのある一軒家にこそ相応しいんだろう。そう、昔の俺たちの家みたいな。
 そんなことを考えながら、俺はさやと奴が抱き合っているのを見たショックのせいで、着替えもせずに料理をしていたことを思い出した。
 今の職場はやたらとドレスコードにうるさいから、二着のスーツを回し着してごまかしていることもあり、このまま座って変なシワをつけたくないのだが、着替えたくても奥の部屋には二人がいる。せっかくの二人だけの世界に割って入るような無粋な真似はしたくないが、着替えはしたい。
 ああ、せめて床座りじゃなくテーブルとイスだったら、シワにならないのに。
 俺は覚悟を決めると、半分開いたままの襖の向こうに声をかけた。
「さや、宮部さん、悪いんだけど、着替えにそっちの部屋を使わせてくれないかな?」
 恋人たちの空間を覗く趣味はないので、部屋の反対側から声をかけると、すぐに奴が顔を出した。
「すいません、気がまわらなくて。どうぞ」
 奴はすぐに出てきたが、さやが出てくる気配はなかった。
「じゃあ、ちょっときがえてきます」
 俺は言うと、奥の部屋に入った。


 さやはさっきと同じで、虚ろな瞳で窓の外を見ていた。
「いいのか、宮部さん一人で待たせておいて」
 声をかけてはみたものの、さやは動く様子はなかった。
 仕方ないので、俺はそのまま着替えを済ませた。


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