黎明皇の懐剣


 岩穴に入らなかった理由はしごく簡単だ。敵の行動を先読みして、回避したまでのこと。

 輩達は足音を頼りに、ユンジェ達を追っていた。
 追われる二人と同じように、敵も音を頼りに動いていたのだ。

 人間は目で状況を確認する生き物だ。それが使えなくなった時、べつの感覚を頼る。輩達は聴覚を頼っていた。

 それを逆手に取ったのである。

「頼りにしていた足音が聞こえなくなったら、普通どこかに隠れると思うだろう? そこに手ごろな岩穴があれば、ついつい、そこにいないか確認しちまうもんだ」

 追っている状況であれば、なおさら思考や視野が狭くなっている。

 足音が聞こえなくなり、尚且つ近くに岩穴があれば、『中へ逃げた』と、先入観を持ってしまいがちになる。ユンジェはそれを利用したのだ。

 無論、思惑通りにいくとは限らない。これは賭けであった。

「俺みたいに森に詳しい奴がいたら、この手は上手くいかなかったよ。なにせ、この森の岩穴は危険だ。中は真っ暗だし、獣や蛇がいる可能性もある。安全を確認するためには、火も必要だ」

 知る者からしてみれば、火も持たず岩穴へ入るなど、自滅の道を辿るようにしか見えない。
    
 ユンジェが男達の立場であれば、まず自分が中に入ることを躊躇ってしまう。

 それをしなかった男達は、あまり森の知識に深くないのだろう。

「岩穴が深ければ、良い時間稼ぎになるんだけどな。こればっかりは運だ。少しでも長く休憩できることを願おうぜ」

 ユンジェはティエンと共に、巨木で足を休めていた。大きな根っこの下に身を隠し、体力の回復を待つ。
 彼の隣で胡坐を掻くと、衣を絞って水を切る。そして、水を含んで重くなった頭陀袋から、干し芋を取り出し、皮むき用の刃物で細く切り分けた。

「ティエン。しゃぶっとけ」

 青い顔をしている彼に、棒状にした干し芋を差し出す。

 このまま食べたところで、硬いし、美味しくも何もないが、何も口にしないよりかはマシだろう。しゃぶり続ければ、干し芋が唾液を吸って柔らかくなるはずだ。

「なに遠慮してるんだよ。ばか」

 一向に受け取ろうとしないティエンの頭を叩き、干し芋を押し付ける。

「お前、口が切れているな。落ち着いたら、冷やさないとな」

 こちらの様子を窺ってくる彼の目から逃げるように天を仰ぐ。雨はまだ止みそうにない。

「ティエンってさ。ピンイン王子って奴なの?」

 いつまでも視線を投げてくるティエンに耐え兼ね、ユンジェは話を切り出す。
    
 目を見開く彼に、町で騒動になっていたと告げ、それはお前のことなのか、と尋ねた。

 たっぷりと間を置き、ティエンは小さく頷いた。隠すつもりはないようだ。

「ふうん。そっか。お前、本当の名前はピンインって言うのか。変わった名前だな」

 ティエンが、きょとんとした顔で見つめてくる。ユンジェも、きょとんした顔で彼を見つめた。

 様子を見る限り、彼はもっと別の反応に、心構えをしていたようだ。

「あっ。もしかして王子の方に反応してほしかった? だったら悪いけど、期待には応えられそうにないぜ? 俺は王子がなんなのか、これっぽちも分かっていないんだから。それは商人か?」

 彼は首を横に振る。

「じゃあ、医者とか?」

 彼はまた一つ、首を横に振る。

「地主?」

 彼は眉を顰めて考え込んでしまう。地主と何か関係があるのだろう。迷う素振りを見せた。
 もしかすると、王子は地主に似たものなのかもしれない。ユンジェは己の知識の浅さを思い知る。

「王子のお前は悪いことをしたのか?」

 だから追われているのか。
 疑問を投げかけると、彼は静かに目を伏せた。

 それは肯定でもなければ否定でもない。途方に暮れた姿は、ユンジェに何を伝えたいのか分からない。

 こういう時、言葉が交わさればな、と思う。
< 24 / 275 >

この作品をシェア

pagetop