いつか、らせん階段で
尚也がうちを出たのは9時じゃなくて11時だった。

「夏葉の誘惑には勝てない」

そう言ったけど、別に私は誘惑したわけじゃない。
あのキスで誘惑されたと思い込んだ尚也が先に進んでしまったのだから。
それで私たちは朝まで眠らず抱き合い少しだけ仮眠をとり、結果的に尚也がうちを出るのが遅くなったというわけだ。

「じゃあ、夏葉行ってくるね。明後日には帰って来るから」

「うん、行ってらっしゃい」
ハグをしたときに頬に軽くキスをして離れた。

「うーん、昨日から夏葉が甘い。いつもそうやって甘えてくれればいいのに」
尚也はにやっとして私の頭を撫でた。

私はこみ上げそうになる涙をギュッとこらえて尚也の背中を押した。

「さぁ、ご両親が待ってるよ。早く行ってらっしゃい」
アパートの階段を下りて行くまで見送った。
笑顔で手を振る彼の姿を目に焼き付けた。

さよなら、尚也。
もう会わない。


私は明後日の仕事が終わったら、そのまま旅に出るつもりだ。
尚也は昨夜、明日の夜に帰って来ると言ったけれど、私は明後日はまだ仕事だから戻って来るのは明後日でいいと止めたのだ。
今朝もうちを出るのが遅くなってしまったから、私の意見に従う気になったみたいで安心した。



尚也との思い出作りなら高原デートをした。

ここ数ヶ月間私が求めていたのは
「待ってて」
このひと言だけだった。

これから見合い相手と婚約なんだか結婚する男にはもう用はない。
この後、出発まで大人しく数日も一緒に過ごして何になるというのか。

「行かないで」
「私以外と結婚なんてしないで」
そんな事は口が裂けても言えない。

知り合った頃から留学は決定事項だったし、私は彼にとって「待ってて」も「一緒に行こう」も言ってもらえない女だから。
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