その男


「白金にあるサロンの契約の件ですけど」

 片桐の声で美穂は我にかえる。

「ねえ、ごめん。その話は明日でいいかな」

 今日は疲れちゃって、最後につけ加える。


 嘘だった。



 あと三駅分の片桐と二人だけの時間、仕事の話で使ってしまうのはもったいなかった。

 何でもいい片桐のことがもっと知りたい。

 好きな音楽は何?

 食べ物は?

 苦手なものはある?

 他人にはどうでもいい内容の会話を楽しむカップルの心境が今は分かる。

 好きな相手とほどくだらない話がしたいものだ。

 価値のない石ころみたいな内容が宝石のように輝くのが恋なのだ。 



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