不器用王子の甘い誘惑
 紗良は泣きそうな顔をしていて、こういう時に泣きついてこないんだなと誇らしかった。
 この状況で誇らしいなんて不謹慎かな。

 紗良が天野さんに呼ばれて、俺は自席に帰ろうとした時に聞こえてしまった。
 給湯室から噂話をしている小さな声。

「これで紗良の奴。いい気味。」

「調子に乗るから。」

 きっとこれは俺のせいだ。
 俺が紗良に余計なことをしたから。

 それなのに紗良は俺に泣き言すら言わないで、やっぱり紗良は俺のお姫様だとの認識を新たにする。
 迷った自分が馬鹿みたいだ。



「大丈夫です。少しミスをしてしまって。」

「何が?どうしたの?」

 今日も遅くまでの残業。
 紗良は頑張り過ぎだ。

 頑なに言わない紗良に意地悪を言ってみる。

「言わないならキスするよ?」

「な……何を………そんな。
 セクハラで訴えます!」

「ハハッ。訴えられたら堪らないな。
 だから言って。」

 誰も残っていないフロア。
 紗良の両手を握って、瞳を見つめた。

 みるみる目が潤んできて手が離された。
 本当は抱きしめたいくらいだけど、さすがに会社だ。

 涙で掠れて途切れた言葉。

「松田さんの定期の領収書がなくなったんです。ごめんなさい。
 もし経費で落ちなかったら私が払います。」

 これは俺と紗良への嫌がらせ。
 犯人は確信できる。

 それでも……俺が出るからいけないんだって分かってる。

「大丈夫だよ。俺に任せて。」

「でも!でも……鉄道会社に電話しても領収書の再発行はしていませんって。」

「大丈夫だから。大丈夫。
 今日は送るから帰ろう?」

 ズズッと鼻をすすった紗良が憎まれ口をたたいた。

「松田さんと一緒には帰らないです。
 無駄な電車賃は経費では落ちないれす。」

「フッ。酔っ払いみたいだよ。話し方。」

 駅までは一緒に行こうと無理矢理に連れていって、電車に乗るまで見張っておくと紗良に告げた。

 線路を挟んでも鼻も目も赤い紗良。
 絶対に許さない。あんな奴……………。

 そう思うけど、俺が出来ることは本当に僅かで情けなくなった。

 紗良が電車に乗ったのを見届けてから自分も電車に乗り込んだ。





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