不器用王子の甘い誘惑
16.絵本の人は
 次の日になっても夢じゃなかったという絶望感に襲われて、重い気持ちのままアパートを出た。

 足取り重く階段を降りると、小鳥のさえずりの中で「おはよ」と手を上げた松田さんがいた。

「え?な、え?」

 なんで?いつからいたの?
 インターフォン押せばいいのに。
 というより……。

「電話。あれ高校生の頃の番号。」

「ふぇ?」

 変な声が出て思いっきり笑われた。

 手違いだったことが判明して、改めて番号を交換……というより、すぐ目の前にいる松田さんに電話をした。

「これ私の番号です。」

「うん。ありがとう。」

「あの……いつまで電話で?」

 目の前にいるのに電話で話してなんだか恥ずかしい。

「電話の声も可愛いなって思ってさ。」

 そういうことサラッと言っちゃうのがさ!

「ねぇ。待ってて寒かったから手繋がせてよ。」

 電話を切った松田さんに繋がれた手を振り払えなかった。

 だって本当に冷たくてどれだけ待ってたの?ってほどに。
 秋っていっても朝晩はめっきり寒くて。

「すごく冷たいですよ?」

「うん。
 風邪ひいたら看病してくれるかなぁ。」

 返事が出来なくて、首を縦に何度も何度も動かした。
 涙が出そうで、でもこれ以上ぐちゃぐちゃになるのは嫌だと我慢した。
 きっと涙を我慢する顔は変だったと思う。

「そうだ。これ。
 ……大丈夫って言ったでしょ?」

 差し出されたのは『再発行』と手書きで書かれた領収書。
 嘘……再発行はしないって……。

「馬鹿正直に聞くと公式的にはダメって言うさ。
 俺、よく領収書を出し忘れて再発行できそうなのは、これでもかってくらいしてもらってるから。
 ダメなところが思わぬところで役立ったね。」

「…………なんか………ない。」

 泣かないってついさっき思ったばっかりなのに。
 掠れて情けない声が涙に濡れる。

「何?何が無かった?」

 頭を思いっきり横に振る。

「何?どうした。」

 笑っている松田さんが憎らしい。

「ダメなとこなんかない。
 完璧過ぎて逆に嫌味です!」

 ハハハッと頭を押さえて笑う松田さんは朝陽に照らされて何かのアートみたいだった。
 三角の歯まで見えて、その三角が可愛くて、綺麗に整った歯まで輝いて見える。

「俺、紗良のために出来ることあって良かったよ。」

 私を見て笑う松田さんが眩しくて眩しくて、でも真正面から見ていたい笑顔だった。






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