優しい嘘
同棲するから
彼女は一言で嘘つきだ。僕には彼女のついた嘘が胸の片隅に残った。
僕の大学生活は楽しいものだったのだろうか。誰かと笑い、誰かと泣いて。そうして過ごせたのは彼女のおかげだ。皆と共に過ごせて良かった。
それなのに、彼女は何故いつも遠くを見つめていたのだろう。誰にでも愛想よく話す彼女なのに。彼女は孤独だった。どうして気づかなかったのか。自分の悔しさと情けなさに苛まれた。
彼女は優しい。そんな孤独で優しい嘘を付かれた。

大学一回生の昴、初めての入学式は緊張した。初めて着たスーツが体を硬直させた。壇上では何やら袈裟を着た人が新入生に歓迎の挨拶をしていた。僕はこれからの生活に胸と期待を膨らませていた。新しい生活、この先の進路。そして自立をする。すべてが今この入学式から始まる。
そして何よりの楽しみはサークルだった。僕には入りたいサークルがあった。
それは写真サークルだった。
サークル一覧のパンフレットを見た。表紙は手書きだった。桜の木の周りに二人が手を繋いだ手書きのパンフレットだった。パンフレットに目を通すと写真サークルがあった。
部員数8名。心に残る写真を撮りませんか? 新入生の皆さんの入部を心待ちにしています。
パンフレットには短く説明されていた。どんな人がいるのだろうか。どんな写真を撮影しているのだろうか。先輩やもしかしたら友達もできるかもしれない。そう思いを馳せながら入学式は無事終わり。
その後は予定がなかったので、写真サークルに下見に行こうと決めていた。外には既に、サークル歓迎をする先輩たちが仮装や音楽を流して新入生にアピールをしていた。
僕のいる大学は一般講義を受ける教室棟と教授に充てられた研究棟があり、そしてサークルや部活のための学生棟の三種類の建物で割り当てられていた。その建物を囲むように中庭があった。とりあえず、中庭でドリンクを買って写真サークルを目指そうとした時だった。
「絶対、私は戻りませんから」
抑揚のある大きな声だった。
「せめてやめる理由だけでも話してくれないか?」
何やら二人でいがみ合っているようだ。男性と女性。周りも気に留めたのか、信号機が赤になるように二人の周りで立ち止まっていた。僕もその中の一人だった。彼女と目があった。思わず避けようとしたが、彼女は僕の方に歩み寄ってきた。そして、僕の手を取り言った。
「彼と同棲するから」
周りがどよめいた。いがみ合っていた男性の方は動揺していた。何より自分がわからない状況に困惑していた。
「はい?」
僕の間抜けな一言だった。でも、それが彼女との出会いだった。


 結局写真サークルには下見にいけなかった。彼女の一言でぐいぐい僕の手を掴んでひっぱられていった。大学の外に出て桜並木を通り過ぎていく。
「ごめんなさい」
急に彼女は立ち止まって俯きながらつぶやいた。僕は彼女に何か事情があると思って彼女の様子を窺っていた。
「いきなり同棲するなんて言われたからびっくりしたよ」
「そうよね」
「その場の取り繕いで言った言葉なの?」
彼女はまだ僕の手を離さなかった
「あれは、私の本心だよ」
困った。まだ名前も知らない相手なのに、いきなり同棲を持ちかけられた。
「まずは事情を説明して欲しいな」
俯いていた彼女だったが、僕の顔を見上げた。その眼差しは揺らぎのない固い意志を持っているかのようだった。
「三木昴。プロ写真家。日本中を駆け巡り人物写真を中心に撮影している。新進気鋭の若手カメラマン」
意表を突かれた。何故そのことを知っているのか疑問が浮かんだ。僕は写真家だ。しかし、インタビューに答える時も決して顔は見せない。現にカメラマンになったのは十八歳の時だった。その時はまだ高校生で。ある写真をきっかけに世に知れ渡ることになった。記者の方とも何度もインタビューされることがあった。インタビューを答える代わりに顔出しはして欲しくないとそれだけは断っていた。
 それなのに彼女は何故僕がプロカメラマンでいることを知っているのか不思議で仕方がなかった。
「あなたの作品に感動して是非お会いしたいと思っていたの。今日という日をどれだけ待ち焦がれていたか。」
「何故、君は僕がカメラマンだということを知っているのですか?それに僕がこの大学へ入学するのも家族以外の誰にも話してないことなのに。まるで君は僕がこの大学へ入ることを知っていたかのような口ぶりだね」
「そうね」
「あなたの写真を見ればわかるもの」
意味がわからなかった。
「良かったら私の家に来ない? 見せたいものがあるの」
「いきなり女性のお宅に上がるのは失礼な気がして、気が引けます」
「大丈夫よ。襲ったりしないから。それとも私を襲っちゃう?」
「初めて会った人にそんなことできません。それにそういうのは好きな人じゃないと」
「私はあなたが好きです。昔からあなたを見ていました。だから、家に来て欲しいの」
昔の僕という言葉にズキンと胸に刺さるものがあった。彼女は本当に僕の過去を知っているのだろうか。そんなはずはない。それよりも、僕のことを好きと言われた。初めて会った人から好きと言われたことに動揺を隠せなかった。
「先輩、名前を聞いていいですか」
「春香」
「今日は春香さんの住まいに上がらせて貰うだけにします」
「ありがとう。それじゃぁ、私のアパートに行きましょう」
桜の花びらが、そよ風にのってひらひら舞い落ちる。足元には花びらがちらほら落ちていた。
彼女に惹かれた。僕の素性を知っている女性。初めて会った男に家に連れ込む。そして、僕の事が好き。まだ名前しか知らない彼女に尋ねたいことはたくさんあった。
「昴くん手を繋ぎましょう」
僕は意を決して手を出した。彼女は右手で僕の手を繋ぐ
彼女の手は冷たかった。だけど、何故か彼女の手は春を読んだ。
桜並木を歩きながら二人でゆっくり歩き続けた。彼女の頬は赤かった。
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