【長編】戦(イクサ)林羅山篇
家光の宣言
 正保五年(一六四八年)
 この年の二月に元号が慶安と改
められた。
 大奥の孝子派と万派の対立は前
年に産まれた鶴松の死によって再
び慌ただしくなった。
 孝子派の里佐が産んだ鶴松の死
は孝子が次男、亀松の死を自分た
ちの仕業ではないと思わせ、窮地
にある三男、長松の血筋が将軍に
なる可能性を残そうとしていると
万派が主張すれば、孝子派は亀松
を殺したと思っている万派が報復
として鶴松を殺し、その上、自分
たちを落とし入れようとしている
と主張して争った。これに対して
家光は主だった者を集めて宣言し
た。
「すでにわしは家綱を世継ぎと決
めておる。その後のことは家綱が
決めること。これ以上争うのであ
ればこの後の世継ぎは御三家から
選ぶことにする」
 これには誰も異論を唱える者は
出ず、ようやく対立は治まった。
 このことがあって大奥の組織化
が一段と進み、正室と側室が無用
な対立を起さないように産まれた
子の育て方が取り決められていっ
た。
 大飢饉から復興が進み、気がつ
くとまた庶民の暮らしが派出にな
り始めていた。そこで家光は質素
倹約を徹底するように取締りを強
化した。
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