直さんと天くん
桃色、白、紅色。
無数の秋桜が辺り一面に咲いている、夢のような風景。
その中に佇む天くんの姿。

「初めて会ったときからずっと、直さんが好きでした」

秋の枯葉みたいにロマンチックなハスキーボイス。
普段の子供みたいな顔はいったいどこにしまったのか、真剣な眼差しと穏やかで優しい微笑み。

「ずっと、直さんのことが頭から離れなくて、また会いたくて、探してたんです」

そんな一途な想いの告白は、今までされたことがなかった。

「大好きです、直さん」

目の前までやってきて、私を見下ろす黒い瞳。
それを縁取る長くて濃い睫毛が、頬に影を落とす。

やっぱり綺麗な顔してんなぁ…。

なんて、見惚れてたら、首を傾けたその顔がだんだん近ずいてきて。

ふわり、と、羽のように触れた、天くんの唇。



「だあぁぁっ!!!はっず!!!」
「おおぉ、びっくりしたぁ」

夜の12時を過ぎた頃、客足が減ったこの時間帯に床をモップで掃除している最中だった。

思わず大声をあげて頭を抱えてしまい、その拍子に手からモップの枝が落ちて床の上でカーン!と甲高い音を立てた。

ダメだ。気を抜くとつい先日の天くんとの秋桜畑での出来事を思い出してしまう…。

「どうしたんだい直ちゃん。いきなり大声出して」

びっくりしたと言うわりに、いつも変わらないのんびりした声音で山吹さんが振り向く。

「ああ、驚かせてすんません。なんもないっす…」

モップを拾いながら答える。

「そうかい?何もないってわりには顔が赤いけど…また風邪でもひいてないかい?」
「ぜんっっっぜん!元気っす!いつも通りっす!」

そうは言ってみるものの、あの日の出来事を思い出す度に赤面して、恥ずかしさに叫び出したくなる。
だってあんなの、ロマンチックすぎるだろ。私の日常っぽくない。

恋愛なんて学生時代以来だ。
最後に付き合ったのは大学生の頃で、社会人になってからは仕事に追われてそれどころじゃなかった。

三十間近になって、母はたまに「誰かいい人いないの?」と言ってくるけど、私はなぜか歳を重ねるごとに彼氏を作ること自体考えなくなっていった。
それよりも頭に浮かぶのは、貯金の残高とか、公的年金の支払いとか、再就職をどうするか、この先の私の人生をどうするか、何をしたら私の人生は幸せになるんだろうか、ということだった。

その答えは未だ見つけられず、迷路のような人生の中を彷徨っているだけなんだけども。

出口も見つからず、進むべき方向も定まらない、行き詰まり状態の毎日に、船橋天という男は文字通り突然現れた。
あの真夜中の、芒を片手に現れた時から。
私の日常は、確かに変わり始めていると思う。

もしかしたら、自分はこの先もう二度と恋愛なんてしないんじゃないかと思ったこともあったのに。
これじゃ、初めて天くんに会った日の翌日に浜路さんに言われた言葉の通りになってしまう。
恋が始まるかもよ、なんて、あるはずないと、あの時は本気でそう思っていたのに。

人生何が起きるかわからないもんだな…。
あんなロマンチックな秋桜畑で告白される日が来ようとは…って、いかんいかん、また思い出そうとしてる。

秋桜畑からの帰り道、バスの中で私の肩にもたれて寝ていた天くんは、停留所に到着してバスを降りてからも眠そうにしていた。
車で家まで送っていこうかと言ったのだけれど、天くんは、大丈夫、歩いて帰ると言って、右手で眠そうな目を擦りながら左手をひらひら振ってみせた。
私の方は、告白されて唇にキスされた後だから、恥ずかしいやら気まずいやらで、どんな態度でどんな話をすればいいのか慌てていた。
だから、天くんが一人で帰ると言って内心ほっとした。

ふらつきながら歩く後ろ姿を見送りながら、一息吐くと、私も背を向けて、自宅までの道を歩き出した。

歩き始めて少ししてから、あんなに眠そうでふらふらしてるのに一人で帰らせて本当に大丈夫か?とか、もし事故にでも遭ったら…とだんだん心配になってきた。

恥ずかしかろうが気まずかろうが、やっぱり私の家まで連れて行って車で送ろうと思い、来た道を引き返した。

けれど、曲がり角を曲がった先、5分程前に天くんと別れた道に、ふらふら歩く後ろ姿はもうどこにも見当たらなかった。



翌日、夜になってコンビニに現れた天くんは、こっちが拍子抜けするくらい普段通りだった。
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