直さんと天くん
02
「直さん、かわいい」

薄紅色のダリアの花を私の髪に挿して、とろけるような笑顔でそう言った。
こんなことされたら、その辺の女の子はみんなイチコロだろう。
この舟橋天という不思議な男に、なぜか、懐かれてしまった。

「いやいやいや、かわいくないから。大人をからかうんじゃないよ、天くん」

髪に挿されたダリアを外して、シャツの胸ポケットに挿し直す。
私、脇阪直、29歳は、特別かわいくもなけりゃ、特別美人でもない。
これと言った取り柄もない、平凡なコンビニ店員だ。

「からかってませんよ?ほんとに直さんかわいいです」

こてん、と首を傾げて、真っ黒な瞳で見つめてくる。

…こいつの言うかわいいは、犬や猫に言うかわいいと同じなんじゃねえのか?
本気にしちゃいかん。

「そういう台詞は彼女に言ってやれよ…」
「いません」

笑いながら、きっぱり言い切った。

おや、意外だ。
まぁ、ススキ持ってたしな…。不思議ちゃんだし。

「もったいないな、天くんが笑いかけりゃ、女の子はイチコロだろうに」
「直さんは?直さんもイチコロ?」

そう言いながら、真っ黒な瞳をキラキラ輝かせて顔を覗き込んでくるので、逃げるように顔を逸らした。

「さ〜、それはどうだかな〜」

すっかり常連になりつつある天くんは、客の少ない時間帯にふらっと現れては、とりとめのないことを喋って帰るだけの日もあれば、おでんやお菓子を買って帰る日もある。

そしてなぜかいつも決まって私のいるときに現れる。
シフトを知っているわけでもないのに。

まさか本当にストーカーか…?
…いやいや、こんなイケメンが私のストーキングなんかしないっての。


「天くんはいくつなんだい?」
「21です。大学3年」
「若いな〜、やっぱ。どこの大学通ってんの?」
「高瀬大学です」

そこは前の職場に近い大学だった。

「ここから車で1時間近くかかるよな。家は?この辺に住んでんの?」
「家は亀屋町です」
「え、ここと反対のとこじゃん。てっきりこの住宅地に住んでんのかと思ってた…なんでこんな遠くのコンビニまで来てんの?」
「直さんに会いに!」
「あ〜はいはい…。てかここまで交通手段は何で来てるの?車でもバイクでもないよな」
「あ〜…それは〜…ん〜…」

なぜか急に言い淀んで頭を掻く天くん。

「ああ、バス?」
「あっ、はい。それです」
「ふ〜ん…」

なんとなく誤魔化されたような気がするけど、まぁいいか。関係ないもんな。


そうしていつも、「また来ます、直さん」と、笑いながら手を振って帰っていく。



…なのに。
来ないでやんの。

その日、夕方を過ぎても天くんは店に来なかった。

また来ますって言ったくせに…。
ずび、と鼻をすする。

風邪をひいたらしく、朝からあまり体調が良くなかった。
寒気がして、頭がぼーっとする。
熱を計ってしまうと余計具合が悪くなるような気がして、計らずに出勤してしまったが、もしかして上がっているのかもしれない。

それもこれも、天くんが来店するだろうと思ってのことだった。

ここ数日、突如現れた謎のイケメンに、少なからず自分が舞い上がっていたことに気付く。

天くんが来ると思って、具合悪くても出勤して、早引きもせず最後までいちゃったじゃねぇか、こんにゃろー…。

…って、いやいや、お客さんを生きがいにしてどうすんだ。しっかりしろ、自分。

八つも年下の子に、しかもイケメンに、直さんに会いに来てますとか直さんかわいい〜とか言われて、本気にしてないつもりでも心の奥底では喜んでた。

常連になって恋が始まるかも、なんて浜路さんの言葉を真に受けて期待していたわけじゃない。
ただ、それまで何もなかった自分の日常が少しだけ変わったような気がして、楽しくなってたんだ。

だいたい、天くんみたいな子が、ほんとに私に会うために自宅からも遠いコンビニに通ったりなんかしないだろ。ちょっと考えたらわかるよ。
きっと天くんは、私よりも歳の近い若くてかわいい女の子と付き合うんだろうな…。

…まぁ、私には関係ないことなんだけどさ。


「お疲れさまでしたー…」

退勤する。
裏口から出ると、外はすっかり日が暮れていた。


ふらつきながら道を歩いていると、後ろから声がした。

「直さん!」

立ち止まって振り向くと、道の真ん中に天くんが立っていた。

「おぉ〜天くん〜…」
「直さ〜ん」

子犬のように笑顔で駆け寄ってくる天くん。

「直さん、なんか顔が赤い」

ほっぺたを意外と大きな両手で挟まれた。

「お〜、風邪引いて熱あるんだよ〜…」
「え!おんぶします!」
「いやいや、いいって。重いから、たぶん」

何より、八つも年下の男の子におぶられるなんて、恥ずかしいし。

しかし、天くんはこう言った。

「だめ!おんぶします!」

何度か断ったものの、結局おぶられることになってしまった。
細い体だと思っていたら、意外と背中が広い。

「直さん羽みたい」
「それは言い過ぎだろ天くん…」

夜の住宅地を、天くんは鼻歌を歌いながら、私を背負って歩いた。

「この道まっすぐ行って…四つ目の角右に曲がって…手前から三つ目の家が、私の家…」
「はぁい、了解しました!」

通りがかった民家の塀から枝を伸ばした金木犀の花が零れるように咲いている。
夜になると一段と香りが強い。

金木犀の香りと、仕事の後の疲れと、熱のだるさ、そして天くんの背中の温かさに眠くなって微睡む。

「直さん、覚えてませんか?僕…」

天くんの声が遠くに聞こえる。

「夏目漱石の…」

…漱石?なんで漱石なんだ…?

そこで、うとうとしていた瞼が眠気に耐え切れなくなって閉じた。


目が覚めたら、自宅の暖かいリビングのソファの上でブランケットを被って横になっていた。

体を起こすと、母が気付いて、こう言った。

「起きた?もう、びっくりしたわよ。インターホン鳴って出てったら、若い男の子があんたをおんぶして立ってるんだもん」
「…天くんは…?」
「天くんっていうの?いい子ね〜あの子。あんたをここまで運んでくれて、すぐ帰ったわよ。もう夜遅いから家まで車で送ろうかって言ったんだけど、いいって。お茶も飲んでいかないって言うから、せめて柿でもあげようと思ったんだけど、玄関開けたらもういなかったわ。足が速いのね、きっと。後で会ったらお礼言いなさいよ?あと、柿あげてね」

母が作ってくれたお粥を食べて、風邪薬を飲んだ。
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