宵の朔に-主さまの気まぐれ-
翌朝朔は少し遅めに起きて居間に移動すると、集まっていた皆の表情がどこか違っていておかしく思いながら席についた。


「おはようございます。どう…したんですか?」


「…椿が居なくなった」


「え…どこへ?」


「分からん。誰も何も聞いていない。だが用が済んだらすぐ発つとは最初から言っていたから、そうなんだろう」


十六夜はそう言ったが朔は納得がいかず、寂しそうに俯いていた息吹は十六夜の隣に座って目じりを拭っていた。


「やっとちょっとお話してくれるようになったのに…。せめて今日発つのなら言ってくれれば…」


「そろそろ潮時だと思ったんじゃね?実際もう教わることはなかっただろ?」


縁側で文の整理をしていた雪男が顔を上げずそう言うと、納得はいかずともそれは確かで、雪男の隣に移動して袖を掴んだ。


「何か知っているのか?」


「さあ、少し話はしたけどもうあまりここには居たくないような感じだったな。そっちこそ何も訊いてないのか?…昨晩も一緒に居たんだろ?」


「…何も」


「じゃあそういうことなんだろう。弟子にぶっちぎられて面目がなくなったのもあるんだと思うぜ。言っとくけど去った女を追いかけるような無様な真似はするなよな。お前は次期当主になるんだから」


「…分かってる」


全てを教わった。


刀の師匠は雪男だが、体術の師匠は椿だ。

女のいろはもついでに教わって、いつかは別れがくると分かってはいたが、こんなに唐突居なくなるとは思っていなかった分、動揺も大きい。


「旅に出たいって言ってた。どこかで道場を開くのもいいって。でも最近はなんだか元気がなくて…弱っていったような感じだった」


「…病にかかったから去ったのかもな。でも椿のおかげでまた強くなれたんだ。感謝しとけよ」


「ああ」


――その後すぐ――

椿が死んだ、と雪男の耳に入ったが、十六夜と話し合った結果、それを朔に告げるのはやめておこうと決まった。

椿は朔の言う通り、一旦は旅に出た。

旅にでは出たがすぐ幽玄町に戻って来て――程なくして死んだらしい。


亡骸は、雪男と口の堅い百鬼で墓場に弔った。

椿は…朔を想うあまり、身も魂も焦がれて死んだのだ。

そんなことを朔に言えるわけもなく、それは長い間雪男と十六夜の秘密でもあった。


だが今――その椿は、朔の前に立っている。

その物語を彼女自身の口で、朔の前で――
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