宵の朔に-主さまの気まぐれ-
突然抱きしめられて身を固くした凶姫は、背後から香る甘い匂いに頭の芯が痺れそうになって朔の腕を外そうとした。


「やめ、て…!」


「触ると死ぬ、か?何度も言ってるけど俺はまだ死んでない。…目の前で泣いてる女を放っておけるか」


「泣いてなんかないわ。涙を私は失ってしまったから」


「その目はもう治らないのか?」


「知らない。考えたこともない」


考えることを放棄した凶姫だったが、今この状況だけは何かを考えなければと思考を巡らせていたが、朔の腕は存外に強く、耳元で囁かれる低い声に腰が砕けそうになって体当たりするようにしてぶつかった。


「離してったら」


「いやだね。やっぱりいい匂いがする。香をつけてるのか?」


首筋ですん、と鼻を鳴らされてびくっと身体を引きつらせた凶姫は、とうとう耐え切れずにその場にへたり込みそうになって朔に抱きかかえられた。


「ちょ…っ、駄目!」


「座り込むほど具合が悪いんだろう?無理をするな。後でお祖父様が来るから身体を診てもらって。柚葉も診てもら…」


柚葉の名を口にした朔の唇に凶姫が人差し指を押し当てて黙らせた。

…何だかとてもいやな気持ちになったから。


「触るなって言っておいてそっちから触ってくるのは有りなんだな」


「うるさいわね、具合が悪いんだから黙ってて」


本当は具合が悪くて腰が砕けたのではないのだが――本当の理由なんて言えるはずがない。


「…ありがと」


「何が?」


「いいから!ありがたく受け取っておきなさいよ!」


「はいはい」


ふっと笑った朔が凶姫の指先をぺろりと舐めて顔を真っ赤にさせると、盛大な雷が落ちた。


「な、何するのよこの変態!」


「うん、やっぱり甘い」


その後も怒られっぱなしの朔だったが、本人はどこ吹く風で終始にやにやして、さらに怒られた。
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