アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


「マオ」
 
 シアが、呼ぶ。
 あたしの名前を。

 会わせる顔がないと、そんなあたしの心配をすべて解って包むかのように、それは優しい声だった。

 思わず。自分から逸らした目を、再び彼に向けてしまう。

 子どもじゃないその姿は、やっぱりちょっと、まだ慣れない。
 本来の姿のシアは、以前聞いた噂が霞むくらいに綺麗で格好良い。
 そんなことをこんな時に、思ってしまった。
 現実逃避だろうか。でも。

 シアが優しく笑うから。
 その姿はまるで、お伽噺の王子様そのもので。
 出来過ぎたワンシーン。
 まるで夢を見ているかのようだった。

 シアが長いローブの裾を払い、その手をあたしに向かって差し出した。
 おいで、と。
 言葉にはせずとも、その青い瞳が笑う。
 バカだな、とまた。あたしの悩みを軽く笑い飛ばすように。

 シアは何も変わらない。
 その心は、誰にも侵すことなどできないだろう。
 変わらずそこで、笑い続けてくれるのだろう。
 そしてすべてを受け入れてくれる。

 だけど、あたしは。
 だから、あたしは。
 そんなシアに、何も失って欲しくない。
 そしてできれば、あたしが――


 次の瞬間にはもう。
 あたしの手はレイズの手を解き、あたしの足はあたしの意思を置いて、駆けだしていた。
 まっすぐ、シアのもとへ。


「……っ」


 抱き留めてくれるその腕は、思っていたよりもずっと力強く大きく。
 ぎゅっと、誰にも見られないように、あたしごとそのローブの中に隠れるようにすっぽりと収まってしまう。

 以前、一度だけ。あたしがシアを抱き締めたことはあったっけ。
 イベルグの港のあの隠れ家。あたしがシアを守るよと約束した時だ。
 それまではずっとこどもの姿しか知らなかった。
 だからシアにこうして抱き締めてもらったのは、初めてだった。

「…すまない、マオ。たくさん、背負わせた。たくさん傷つけた。この世界などまるで関係のないお前に」

 まるで世界にふたりきりの、そんな小さな世界に居るような気さえする空間。
 シアが掠れるように小さな声で囁いた。
 あたしの耳元に唇を寄せて。

「…どうして、シアが謝るの…ぜんぶ、あたしが…っ」
「ちがう、マオ。おまえに非はひとつもない。おまえはおまえに出来るだけのことをやってくれた。おまえが砕いてくれたその心は、いずれこの国の、世界の、礎となるだろう。この世界がどうなろうとも。この世界はおまえを忘れない。きっとだ」
「……シア…?」

 まるで泣いているような、その小さい声。
 そっと顔を上げるとそれは杞憂に過ぎず、シアは変わらず優しく笑ってくれた。
 それから再びあたしの体を力強く抱く。
 ふたりきりの世界はもう終わってしまった。
 シアの肩越しに、おそろしいくらいに明るくまぁるい月が、あたし達を見下ろしていた。

 ねぇ、シア。
 月がすごく綺麗だよ。こんな時なのに、そんなことを思ってしまうなんて、変だろうか。だけど吸い寄せられるように、目が離せない。

 今とても満たされている気さえした。
 なのに。
 涙が出てくるのはどうしてだろう。
 シアは泣いては、いなかったのに。

 その後ろで、リシュカさんの持っていた杖が淡い光を放っている。
 月の光にそれは吸い込まれるように、大きく膨れて広がって――

 やがて辺りが夜を忘れて眩い光に包まれていた。
 それは見覚えのある光の中。
 
 シアが笑う。
 残酷なくらいに美しく、優しく。



「お別れだ、マオ」


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