アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


 トリティアの突然の拒絶に息を呑む。
 あたしを見下ろす、その冷たい瞳。

 じゃあどうしろというのか。
 もうあたしには帰る場所がない。ここ以外に。

『それに、ぼくは。約束を守らない人間は大嫌いだ。かつての彼女も…ぼくとの約束を破って、いってしまった。身勝手で傲慢、無力で愚か。ぼくはそんなきみたちを心底軽蔑し――』

 冷たいはずのその瞳の奥。僅かに灯る熱の色。

 ――遠い世界で。あたしを呼ぶ声がした。
 あたしの魂を、手繰る手が。
 そしてあたしの内側で、ずっとあたしに問いかけ続けてきたのはトリティアだった。

 それで、良いのかと。
 ただしさは選べない。
 だけど心は嘘をつけない。
 ずっとその傍らに居た。

『愛しいと、思ってしまうんだ』

 とん、と。
 触れた手が肩を押し、ゆっくりとあたしの体はそのまま傾く。
 いつの間にかトリティアの隣りにはふたつの影。
 アトラスとセレスだ。
 ――どうして。

『さよならだ、マオ。誰も奪うことなく奪われることなく…きみはきみのただしさで、人とそしてぼくらを導いてみせた。きみの役目はこれで終わりだ』
「どういうこと…ねぇ、トリティア…!」

 思わず伸ばした手が空をきる。
 トリティアはあたしの手をとろうとはしない。
 ただ離れていく距離を見送るだけ。

 トリティアが微かに笑って、隣りに居たアトラスとセレスに何かを命じた。
 それに応えるようにあたしの身体は淡い光を放つ。

 どうして。
 どういうこと?
 また、あたしを。
 不必要だと突き放すの?
 誰も求めてくれないの…?

『…ちがうだろう、マオ。誰でも良いのではなかったはずだ。“誰か”ではなくきみの、望む相手でなければ意味はない。そしてきみはそれを…見つけたはずだ。あの青の世界で』
「…トリティア…」

 ぽっかりと、自分の足元から地面が消える。
 落ちていく。
 ゆっくりと泡に包まれながら。

『きみの言う通り、これからは新しい風が吹く。きみが与えたもの、残したものは…きっと永遠に受け継がれるだろう。この世界の、キセキとなって』

 懐かしい感覚がした。
 光の粒が空に溶けて、水中に居るような、すべてが呑まれるような感覚。
 ああ、これは。
 あたしの身体の――

『愛しているよ、ぼくらの末の妹。約束を果たして――いつかまた』

 言って、最後に見せたトリティアの笑み。
 それは波に呑まれるように、流されるように消えていき、あたしの体と意識をも奪う。
 
 海の底から見上げる景色。光はそこまで届かない。遠く遠くに見えるだけ。
 揺れる水面のその影が、海の底にも同じ影を象る。
 そうか、あれが。外の世界と繋がっているんだ。

 夜の世界で唯一の、まぁるい月の降り注ぐ光。
 そこから、あたしを見ていた。
 あたしが生まれるその瞬間を。
 見ていたのは、見守っていたのは――あなただったのね。

『きみの旅路の果てで会おう』

 遠ざかるその声。
 別れの哀しさと寂しさと、息苦しさに涙が浮かぶ。
 トリティアはいつから、あたしを帰すつもりだったのか。
 分からない、だけど。
 愛していると言ってくれた。
 そうして見送ってくれた。
 もとの世界へ。
 
 すべての世界にあたしを家族と呼んでくれるひとが居る。
 なんて、幸せなことだろう。それだけでもう充分だった。

 苦しいと、そう感じたその瞬間。
 自分が身体を取り戻していたことを認識した。
 そして代わりに、あの世界で得たものを、失ったことも。
 神さまの力があたしの中から、消えていく。
 おそらく身体と引き替えに。

 あたしはもう誰の神さまにもなれはしない。誰を守る力も糧もない。
 ただのひとりの女子高生に戻る。
 自分の望んだ、世界で。



 はじまりも終わりも水の中。
 霞む意識の向こうから、あたしを呼ぶ声が聞こえた。
 「真魚」と、何度も。
 頬を打つ痛みが現実を引き寄せる。

 重たい瞼をなんとか持ち上げる。
 瞼だけじゃなくて身体中すべてが水に濡れて重かった。
 身体中が重くてだるくてどこもかしこもやたらと痛い。
 痛くて痛くて、堪らない。

 背中にかたいアスファルト。
 真夏の夜だからかほんのりと温かさを感じる。
 滴る水滴があたしの頬や目元を滑る。
 これは誰の、涙だろう。
 ぼんやりとようやく、霞む視界に相手の顔が映る。
 あたしを腕に抱いて泣くその人が。

「……なな、せ…?」
「……っ、真魚…!」

 もう何度目だろう。七瀬にこうし助けてもらうのは。
 無意識に苦笑いが零れる。
 そんなあたしに七瀬は怒った顔。それでも涙は流れたまま。
 ぎゅっと、あたしを抱き締める。

 視界の端には、すっかり見慣れた旧校舎のプール。
 あたりは暗く、だけど満月の明かりは眩しいくらいだ。
 七瀬だけじゃなく、早帆や加南、未波や凪沙も居る。
 どうして、みんながここに。

「なんなの、一体どういうことなの…?! なんで真魚が、プールに沈んでたの…!?」
「びっくりした、なかなか目を開けないし、息もしてなかったし…! もう、ほんとに…!!」

 加南と早帆が、ぼろぼろと涙を零しながらあたしを七瀬から奪って抱き締める。
 未波や凪沙も脇から必死にあたしの無事を確認して、それからちゃんと返事を返すあたしに安堵の息と腰をついた。
 そうして少しずつ醒めてくる頭で状況を理解した。

 あぁ、そうか。
 帰ってきたのだ。
 本当に。
 
 そういえば、言ってたっけ。
 夏休みの初日にプールが取り壊される前に、夜中にプールに忍び込むって。
 ホントにやるんだから、しょうもないな。
 だけどそのお陰であたしもきっと、救われた。
 今までずっと、救われてきた。
 
 そんな平穏な世界であたしは生まれ育って
 そしてあたしはこの世界を――捨てられなかった。

 みんなの泣き声で、あたしの名前を呼ぶ声で、蜩の声は聞こえない。
 あんなにうるさく鳴いていたのに。
 不思議と今日は静かだった。

 月明かりだけがすべてをやさしく包んでいて。
 プールの水音は、もう何にも返さない。あたしの中には響かない。




 15歳のあたしの、永い永い旅が終わった夜だった。


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