アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


 ブリッジを後にし、受け取った鍵を反射的にスカートのポケットにしまおうとした時、久しぶりにその存在を思い出した。

 ポケットにはずっとシアからもらった短剣が入っていたのでその存在が大きかったけれど、ポケットだとやや取り出しにくいということもあり短剣用の固定ホルダーをもらったのだ。
 短剣に刻まれた紋章が見えないよう気を付けながら、今は腰元でベルトで固定している。
 確かにこっちの方が持ち歩きやすいしいざという時も使いやすい。

 そして今ようやく、今まで短剣の代わりにポケットに入れてあったものの存在を思い出したのだ。

「電源切ったまま、すっかり忘れてた…」

 ポケットに入れっぱなしだった携帯を取り出し手の平に乗せる。
 なんだか随分久しぶりに携帯に触れた気がした。

 あっちは…もとの世界は今、どうなってるんだろう。
 もとの世界とこちらとでは、時差がある。
 当初はその時差内でもとの世界に帰るつもりだった。
 何もなかったことにして。
 だけどもう、それはできない。
 ここでやるべきことをやると決めたから。

 少し躊躇して携帯の電源を入れる。
 いずれ帰る気持ちがあるのも本当だ。ならせめて、戻った時に大事になっているようなことは避けたかった。
 幸いにも何故か、通信できるのだ。
 世界を隔てて尚電波を繋いでいる。

 暫く学校を休む旨を誰かに伝言しておこうか。
 でもそれで実家に連絡が入れられても面倒だし困る。
 七瀬や加南達に上手く誤魔化してもらうにも…でもじゃあ、七瀬達にはなんて言おう?
 特に加南や早帆はきっと根ほり葉ほり聞いてくる。
 それを思うと億劫だった。

 起動の間を置いて、携帯が小さく振動する。
 メールを受信したようだった。

「…もう学校始まっちゃってるか…」

 携帯に表示されている日付は、あたしが初めてシェルスフィアに来た日の翌日。
 やっぱり不思議な時差だなとつくづく思う。
 あれからこっちでは1週間近く経っているのに。
 漸く期末考査が終わって、後4日で夏休みに入る。
 いっそ夏休み中に喚(よ)ばれていたら言い訳を考えずに済んで楽だったのに。
 午前中の授業はもう始まっていて、メールと着信の報せが来ていた。

「…あれ…」

 メールの内容を確認する。
 早帆と加南と七瀬と、それから――

「お父さん…」

 珍しい…お父さんからのメール。
 すごく久しぶりな気がする。
 以前は割と頻繁にメールのやりとりをしていた。
 夕飯は何が良いとか、お弁当の感想とか、帰りちょっと遅くなるとか。ふたりで暮らしていた頃はよく他愛のないメールをして。
 お父さんは仕事の合間に必ず返信をくれて、だから家でひとりで待っていてもぜんぜん寂しいだなんて思わなかった。

 メールの内容は、夏休みいつ帰ってくるのかの確認だった。それからお墓参りのことと、家族旅行に行かないかという内容。
 すぐに返信する気になれず携帯をポケットに再び戻す。
 昨日の夜の息苦しさが喉の奥に甦った。

 ――帰りたくない。
 そこに居場所は無いのだから。
 頭に浮かんだのは、リュウの存在だった。
 同じ学校の、おそらく先輩だ。
 うちの学校は制服の校章の色で学年を判別できるようになっている。
 でも、リュウはいつこっちに来たんだろう? 
 何の為に…どうやって。
 どうして、戻らないのだろう。

『だけどオレはもう、あの世界は捨てた』

 そう言い捨てたあの目。
 その目に未練や心残りは一切感じられなかった。
 リュウは生まれ育った地を捨て、この世界で生きることを選んだという。

 そんなことができるの?
 本当に?

 この世界で生きるという選択肢がある。
 そんなこと考えたことも無かったけれど。
 リュウはそれを、選んだ――

 もうこの世界を夢みたいだとか思わない。
 この世界で見聞きして感じたことは確かに自分の中に刻まれている。
 それを持って、あたしは帰る。
 ここでやるべきことを見つけて、そして何かを成し遂げた時――
 その時ようやく、見つけられる気がしていた。
 あたしが生きてきた意味。
 生まれた意味。
 そうして生きていく意味が。

 だけどその場所は、ひとつでは無いのかもしれない。
 リュウと対峙した時に言われた言葉を思い出す。

『戻りたいのか?』

 戻りたかった。
 だけどあの時のあたしにとってそれは、逃げるのと同じことだった。
 理不尽に巻き込まれたこの世界の戦争という恐怖から。

『ひとりで生きていくのに、生きる場所など自分で選べる』

 その通りなんだ。
 あたしにはもう、選ぶことができる。
 どの世界で、生きていきたいか――

「――――マオ?」

 呼ばれる声にはっと顔を上げる。
 そこにはクオンとイリヤが居た。

 咄嗟に返事をしたものの上手く笑うことはできず、あたしはきっとヘンな顔をしていたのだろう。
 怪訝そうなクオンがあたしの隣りに歩み寄り、その後ろからイリヤが続く。

「どうかしましたか。そんな所に立ち尽くして」
「う、ううん…ちょっと、立ちくらみ…」

 言いながら右手を額にあてる。
 じんわりとイヤな汗が滲んでいた。
 振り切るように固く目を瞑り、それから顔を上げる。
 今度はちゃんと笑えていたはずだ。

「ちょうど良かった、イリヤを探しに行こうと思ってたんだ」

 あたしの言葉にイリヤが小さく首を傾げる。
 その愛らしさに少し心が和んだ。

「乗船の儀式みたいなのがあって…レイズの所に連れてこいって言われてるの。今時間ある?」
「ちょっと待って下さい。それは急ぎですか?」
「え、ううん、時間がある時で良いって言ってたけど…」
「でしたらこちらの用事を済ませてからでも宜しいですか。こちらもマオに用があったので」
「あたしに用って…クオンが?」
「いいえ。彼女の方からです」
「イリヤが?」

 言われてイリヤに視線を向ける。
 イリヤはにこりと微笑んで見せた。

 イリヤは声を失っている。
 船に来てからは石板にチョークで書いた文字でやりとりをしていたけれど、残念ながらあたしにこの世界の文字は読めないので、何かある時は必然的にクオン経由になることが多かった。

「彼女も貴女に思うところがあるようです。あの競りでの経緯を訊かれたのでマオにしか聞こえないという歌について説明したところ、貴女の力を見せて欲しいとのことです」
「…イリヤが…あたしの力を?」

 あたしの、と言っても実際はトリティアの力だ。それはクオンもイリヤもおそらく分かっているはず。
 でもそうすると、イリヤがやはり神々に関する何らかの情報を持っているという推測は濃厚に思えてきた。

「分かった。人の少ない所に行こう」

 あたし自身まだ力を扱いきれてない。
 現状の問題点はそれに尽きる。
 いざとなったらクオンが居るけれど、クオンだって万能じゃない。
 現在のあたしにできることなんて、たかが知れているのだ。
 誰よりあたし自身が、この力を受け入れる努力が必要なのだ。

< 62 / 167 >

この作品をシェア

pagetop