アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~

3



 おそるおそる扉を開けると、案の定そこにはクオンが居た。
 すぐに目が合って誤魔化すように笑ってみるけれど、生憎クオンは笑ってはくれない。
 見てとれるほど不機嫌そうだ。
 腕を組んだまま憮然とあたしを見下ろしている。

 当たり前か。心配してくれてたのに、追い出したりして。
 それからクオンがあたしの後ろのイリヤにも視線を向けて、またあたしに戻す。

「…それで、説得とやらは終わったのですか。ぜひ成果をお聞かせ願いたいものですが」

 普段無表情で感情を殆ど表に出さないクオンにしては珍しい。大変分かりやすく怒っている。

「うん、終わった。イリヤも、協力してくれるって。イリヤとのことは、最初の認識と何も変わらないよ。イリヤの責任者はあたしだし、全部終わったらイリヤには自由を返す。ただ、ひとつだけ…イリヤのことは、国には報告しないでほしい」

 言ったあたしにクオンは眉を撥(は)ねる。
 目つきが益々厳しくなり、あたしの背に隠れるイリヤが怖気づいているのが背中越しに伝わる。

「私の立場をお忘れですが。私はこの件の一切を、国に報告する義務があります」
「だからそれを伏せておいてほしい。結果だけ持ち帰れば同じことでしょ? イリヤの協力が必要だっていうことを理解しているなら、受け入れてほしい」
「…命令のつもりですか。マオ、貴女が…私に?」

 どこか皮肉めいた口調で言うクオンに、あたしは腰の短剣をホルダーから外してそのままクオンの胸元に押し付けた。
 じんわりと、手にイヤな汗が滲んでいる。
 流石にもう笑えなかった。

「そうだよ、クオン。これは命令。あたしに使える、唯一の」

 一瞬眉をしかめたクオンがその短剣に目をやり、何かに気付いたようにその手にとった。
 そして短剣の柄にあるものを確認し、その目が見開かれる。
 柄をそっと握り、その目をまたあたしに向ける。
 その表情はいつもの無表情に戻っていて、クオンが今何をどう思っているのかはあたしには分からなかった。
 だけどあたしの言葉の意図が正しくクオンに伝わったことだけは、分かった。

「……わかりました。この場は従います。この命に背くことは、私にはできませんので」

 クオンの忠誠は揺るがない。その紋章の下にある。
 それをあたしが振りかざすことをクオンはどう思うだろう。
 リシュカさんだったらすぐに斬り捨てられている気がした。
 きっとそれくらいにあたしがしたことは、王家に忠誠を誓う人達にとっての冒涜だろう。
 だけど例えクオンに憎まれても。
 あたしも後には退けなかった。

 イリヤが声を取り戻したということは、ひとまず他の船員には伏せておくことにした。
 イリヤ本人の希望もあったし、突然声を取り戻すというのも説明が厄介だったので暫くはそれで様子を見ることにした。
 だけどレイズにだけは本当のことを言っておく必要がある。それはこの船に乗る者としての義務だからだ。

―――――――…

 また少し眠るというイリヤを部屋に残して、船の見張り台へと向かう。
 夜も更けたこの時間、クオンがそこに居ると聞いたからだった。

 マスト内部の梯子を上り、見張り台を覗く。
 マストに背を預けて俯いているクオンの横顔が薄闇の中でうっすらと見えた。
 だけどおそらく来る途中でクオンはあたしの存在に気付いていたのであろう、すぐにその目が自分に向いた。

「明日は早いんですよ。寝なくて宜しいのですか」
「…ちょっと、話したくて。ジャマしないようにするから、少しだけ良い?」

 床から頭だけ出して訊くあたしにクオンは分かりやすく溜息を吐き、背筋を伸ばして体ごとこちらに向ける。
 それからわずかに背を屈め、その手をあたしの前に差し出した。
 一瞬の間を置いて自分に差し出されたのだと理解し、おずおずとその手をとる。
 怒っていることは承知の事実なのに、こんな時までクオンはクオンらしかった。

 とった手を強く引かれて立ち上がる。
 強く握られた手は思ったより優しく、夜の海風の中で温かく感じた。

「港に居る時も見張りって必要なんだね」
「海上よりは遥かに安全ですが。帰港した直後の海賊船なんていい鴨ですから、ある意味そういう時が一番狙われ易いんです。皆酒は抜けませんし夜は町に行く人も多いですし。警備が手薄になりやすい」
「そっか、船に殆ど人残ってないもんね。レイズやルチルは居るけど…皆またお酒飲みに行っちゃってるんだ。明日出航なのに」
「酒だけではありませんけどね」
「? お酒飲む以外にどこ行くの? 買い物は出航前って聞いたけど」

 隣りで見上げるあたしにクオンは一瞬口を開きかけ、すぐに噤んだ。
 港町の明かりが遠くで賑わっていて、だけど見張り台には明かりは無いのでその表情までは良く見えない。
 暫くしてクオンが「何でもないです」と素っ気なく返したので、あたしもそれ以上は聞かないことにした。
 それからゆっくりと本題を切り出した。

「…イリヤのこと、ありがとう。受け入れてくれて」
「ご命令ですから」
「そのことも、ごめんなさい。本当はあたしにそんな権限はない。シアはあたしに、命の危険がある時にあれで身を護れと言っただけだから。だけどあの場でああするしかなかった。あたしの言葉じゃ、クオンの心には届かないから」

 クオンが従ったのは、シェルスフィア王家の紋章の下にだ。
 それはもはやこの国最後の王族となった、シアの名の下に。
 自分が仕える主の為に、あたしなんかに折れたのだ。

「…シアには、あたしから言う。シアに隠し事がしたいわけじゃないし、シアには全部報告するって約束だから。でもクオンがそれをすると、シアはイリヤを無視できなくなる。だからどうしても、あたしから話したかった」
「…貴女も、ジェイド様の従者でしょう」
「あたし? 違うよ、従者ってわけじゃない。あたしにはクオンとシアみたいな関係は築けないし、なろうと思ってもきっとなれない。だってあたしはこの世界の人間じゃないもん。シアの力になりたいし守れたらとは思うけど、多分きっと、その隣りに居ることはできない」

 選べば未来はいくらでも。
 イリヤにそう言った心に嘘は無い。
 だけど。
 選んじゃいけない未来もある。
 それもちゃんと、分かっていた。

「…ジェイド様を、お慕いしているのですか」
「…まさか! いろんな意味でそれは無いよ。シアにはもっと相応しい人が居るだろうし、シアのことは好きだけど恋とか愛じゃない。流石にそれくらい、自分で分かってる」

 隣りに居るクオンの顔は良く見えない。
 あたしから視線を逸らしたのだから当然だった。
 だけどあたしの頭のてっぺんあたりに、クオンの視線が突き刺さる。

「…シアには、死んでほしくない。それだけだよ」

 一番確かなのは、それだけだ。
 シアに対するあたしの想いなんて、それだけで良い。

 選ぶ未来の中には例えばリュウが選んだように、この世界で生きていくとう道もあるのかもしれない。
 それを思う自分をもう否定しきれなかった。
 だって心はこんなにも、惹かれている。この世界での幾つもの出会いがきっとそうさせる。
 だけどそれはやっぱり、逃げに過ぎないのだ。
 もとの世界に戻りたくないと、自分の問題を棚に上げて。

 今のあたしはもとの世界に居場所を失くして、この世界に逃げてきただけに過ぎない。
 危険でも怖くても、自分にとって居心地の良い場所を選ぼうとしてる。
 だからこそシアをその理由にするのだけは嫌だった。
 それ以外の理由を、今の自分は気付いちゃいけなかった。

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