アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


 息を切らせて辿り着いたのは、旧校舎のプール。

 あたしが“こっち”に戻ってきた時と同様にフェンスの鍵は開けっぱなしで、プールには満たされた水がなみなみと揺れている。
 あたしはそこに躊躇なく飛び込んだ。
 水飛沫が勢いよく空に舞う。

「――トリティア! いるんでしょう?! あたしをっ、戻して!」

 戻ってきて、どれくらい経った?
 こっちの世界とシェルスフィアでは時差がある。
 あっちではどのくらい経ってしまっただろう。
 はやく戻らなければ。
 あの船に…あの海にはまだ。
 たくさんのものを置いてきたまま。

 焦る心とは裏腹に、耳をつくのは相変わらずの蝉の声と、水の揺れる音だけ。

「…トリティア…?!」

 おかしい。何の反応も感じられない。前は呼んだら応えてくれたのに。
 何故だろうイヤな予感がする。得体の知れない、胸騒ぎが――

『――マオ』

 呼ばれる声にはっと視線を向ける。
 そこにはぼんやりとおぼろげで透明な輪郭があった。
 プールの水で輪郭を象ったような、だけどカタチを作り損ねたような、頼りなく揺れる存在。
 だけど間違えることのない、その声は――

「トリティア…?」

 それは間違いなかった。だけど以前とはまるで違う。
 時折あたしの中に姿を現す彼の姿とは、明らかに様子が違って見えた。
 目さえも見当たらないその水の影が、あたしと対峙する。

『…本当に、良いの…?』
「…どういう、意味…?」
『行ったらもう二度と、この世界には戻ってこれないかもしれない。それでも君は行くの、あの世界へ――』

 トリティアのその言葉に、どくんと強く胸が鳴った。

 こっちの世界とシェルスフィアを繋いできたのは、この旧校舎の旧(ふる)いプールだ。
 そこからすべては始まった。
 だけどこのプールは、あと2日で取り壊されてしまう。
 その前に戻ってこれなかったら――このプールが取り壊されてしまったら、あたしは出入口を失うことになる。
 そしたら二度と、こっちの世界には戻ってこれない。
 こっちの世界の人たちに、会えなくなる。
 家族にも、友達にも――

『この世界を君は、捨てられるの?』
「…違う! 捨てたいわけじゃない! ただ、あたしは――!」

 あたし、全部やりかけだ。
 なんて中途半端。なんて情けない。
 目の前の問題から逃げて、別の世界に求めているものは何だったんだろう。
 そんなあたしがシェルスフィアで、何ができるというのだろう。
 ――でも。

「――真魚?! そんなところで何して…っ」

 声の方向に視線を向けると、フェンスの向こうに息を切らせた七瀬の顔が見えた。
 制服のままプールの真ん中にいるあたしの姿を見た七瀬が、慌ててフェンスの入口へと駆け寄る。
 その姿に何故だか涙が込み上げた。

 またあたしのことなんか、追いかけてきてくれたの?
 本当にお人好しなんだから。

 たぷんと水が大きく揺れる。
 水面に描かれる波紋。
 その中心に居るのはあたしひとりだ。
 ひとりだと、思ってた。

 新しい家族とは上手くいかない。
 たったひとりの肉親にさえ、裏切られたような気がしてた。
 自分の気持ちすら言えなくなって。
 居場所がどこにもなくなった。

 学校ではいつも上辺だけの付合いで、目の前にいる人のこと、ちゃんと見ようとすらしていなくて。
 いつも楽しそうに笑うみんなのこと、どこか見下して距離をとってた。
 そんな自分に気づいてなかったのはあたしだけ。
 みんなちゃんと、見ていてくれていたのに。

 誰もあたしのこと、わかってくれないって。勝手に孤独ぶってた。
 ほんとうの気持ちが、誰にも言えなかった。

 途中で放棄した宝探し。
 あれからあたしの心はずっと目隠ししたままだ。
 見たくないものには目を閉じて、知りたくないことには耳を塞いで――

 だけどそれはもう、嫌なの。
 ひとつくらいあたしも、自分で選び取るものが欲しい。
 成し遂げたい。自分で選んだことだから。
 だから――

「もう二度と後悔しない為に、あたしは行く。そして戻ってくる。投げ出したりなんかしない。あたし、あの世界で…見つけたものがあるの――」

 プールの水が光を放つ。
 少しずつ膨れた光がまっすぐ空へと延びて、光の柱となった。
 それはシェルスフィアの海にあった、光の柱にとてもよく似ていた。

「――真魚?!」

 プールサイドに膝をついた七瀬が、驚きの表情のまま手を伸ばす。
 あたしはその手をとることはできなかった。
 自ら離した手だったから。

「七瀬、心配しないで。ちゃんと帰ってくるから――」

 光の向こうで七瀬の顔が泣きそうに歪む。
 巻き込むつもりはなかったのに、巻き込んでしまった。
 その優しさにあたしは、甘えることしかできないのに。

 あたしはできるだけ笑って、それからぎゅっと胸元のお守りを握った。
 この光があたしをあの世界へと繋いでくれる。
 今あたしが、望む世界へ。

 自分が生きていく世界。
 それをほんとうに選ぶ日は遠くはないと、心のどこかでそう感じながら。

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