アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


 リュウは以前と同じように、真っ黒いローブを頭から被り、その隙間からメガネのレンズ越しの鋭い視線をあたしに向ける。

 突然のことに、頭が追い付かない。
 目の前のジャスパーの喉元に突き付けられた、細身の刀剣。それが自分に向いていたら、どんなに良かっただろう。

「…分かった。行く。だからその剣を下ろして…っ」

 無言の答えは拒否。切っ先が下ろされる気配はまるでない。
 ぐ、と。握った拳に自分とは別の熱が触れた。
 視線をリュウから目の前のジャスパーへ向ける。
 ジャスパーは、さっきと同じ笑みを、あたしに向ける。
 大丈夫ですよ、と。その瞳が囁く。

 あたしは唇を噛みしめ、一度ぎゅっと目を閉じてから、瞼を上げてもう一度ジャスパーと視線を合わせた。
 大丈夫。あたしはジャスパーを、信じてるから。

「……トリティアはどうした?」
「……?」
「気配が随分薄れている。なのに、なんだ、この気配は…」

 何かを感じ取ったのか、見定めるようにリュウの目が、あたしの全身をなぞる。

 そうか、あたしという存在は。
 人にも、神にさえもまだ、広くは知られぬ存在。
 あたしにできることを、彼らはまだ知らない。

「まぁいい。肝心なのはトリティアだ。お前の中にまだ居るなら、それで事足りる」

 そう結論づけたリュウが、ジャスパーに切っ先で立てと促す。
 温もりが、離れる。ついさっきまで繋いでいたのに。
 でも今は泣いている場合じゃない。

 リュウが魔法でジャスパーの身柄を拘束し、一番前を歩かせる。あたしはその後に続いた。

 船長室の扉から一歩出て、その光景に目を瞠(みは)る。
 そこはもう、アクアマリー号の船の上ではなかった。

 しんと静まりかえる、冷たい石の道。
 まさか、ここが――

「深層の祠――神々の世界と通じる場所。だが繋げられるのは、トリティアだけ。かつてのこの海の番人、異海の王の許可が居る」
「…トリティアの…?」

 かつん、と。冷たい足音が3人分。石に覆われた通路に響く。
 不思議な場所だ。ここには一切、何もない。そう、何も感じない。

 ここではリュウが先導して前を歩いた。
 あったはずのドアは消え、逃げようとすることすら無意味だと分かっているからだろう。
 ジャスパーの拘束を解くことは、今のあたしには無理だろう。
 黙って後をついていくしかない。

「トリティアが去って、別の門番がたてられた。だが所詮一時凌ぎ。通行証は片道しか得られない」
「…待ってよ、一方的に説明されても、意味がわからない」
「契約には少なくとも、双方の合意が必要なものだ。だが双方を正しく取り次げるのはトリティアにしかムリだった。つまり海の神と契約するのには、トリティアの仲介が無ければ不可能だったらしい。今までは」
「…今、は…? 違うの…?」

 前方に明かり。人の気配を感じる。
 誰だろう。リュウの仲間か――もしくは船の誰か。
 可能性を必死に考えながら、自分のとるべき行動を思案する。
 とにかくあたしは。
 誰も失いたくない。

「戦場は間違いなく海になる。神の力は、ひとつでも多く必要だ。本来ならトリティアの解放と共に無理やりにでも契約すべきだったが…それはもう言っても仕方ない。トリティアには仲介をしてもらう。海で最も強いとうたわれる神、アトラスを」

 暗い場所から光のもとへ。
 眩む光に思わず目を細める。

「――マオ…!」

 そこから、自分を呼ぶ声。
 この声は。

「イリヤ…!」

 開けた場所の中央には、泉があった。
 人工的ではない、おそらく魔法であろう篝火が、空間のいくつかで燃えている。
 そしてその泉の中、さらに中央に石で出来た小さな祠。
 泉の手前にイリヤと、その隣りにイリヤの腕を掴む大柄の男。
 以前も船で会った。アクアマリー号が襲われた時、レイズと剣を交えていた相手。
 確かアールと呼ばれていた男だ。

 アールがあたし達の姿を捉え、にやりとリュウに笑いかける。

「居たのか、良かったな」
「そちらもな」

 ぐい、と。腕を強く掴まれて泉の傍まで連れていかれる。ジャスパーも一緒だ。
 人質はジャスパーだけだと思ってた。少なくともあたしを脅すにはジャスパーひとりで充分だ。
 なぜ、イリヤが。
 泉の前まで来た時、イリヤの腕が解放された。
 イリヤが素早くアールの傍を離れて駆け寄ってくる。

「マオ、無事…?! ていうか、なんでじゃジャスパーまで…!」

 悲鳴のようにイリヤが叫んで、あたしの胸に飛び込んでくる。
 状況が理解できないのはイリヤも同じだろう。
 リュウがアールの隣りに並んだ隙に、そっとふたりをなるべく近くに寄せる。離れないように。

「さて始めようか。瑠璃の一族の生き残り。君は海の神々と、意思の疎通がはかれるそうじゃないか」
「…!」

 どうして、そのことを。
 イリヤの存在、ひいてはその素性は、あたし達以外知らないはずだ。
 なぜ――

 混乱する視界の片隅に、白い残像が霞めた。
 響く羽音。それが泉の中央へと向かっていく。
 確認せずとも分かる。
 シアの、白いカラス。

 シア、そう胸の内で無意識に呼ぶ。
 泣きそうになりながら。
 だけど返ってきたのは残酷な応えだった。

『仲介、通訳、そして供物。すべてが揃った。さて神は、どう応えるかな』

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