メトロの中は、近過ぎです!
「東陽町。駅の中」

モデルが言う。
声も低くてお腹に響く。
こんなに顔も良いのに、声も良いって、持ってる人は持ってるなって思う。

「……き?佐々木?大丈夫か?」

あ、電話中だった。

「すみません。えと…なんだっけ…と、東陽町の駅の中です」

目の前にいるモデルが微かに笑ってうなずく。
微笑もなんて素敵なんだろう。

「迎えに行くからそこにいろ。新規クライアントの資料はどこだ?」

大野課代の焦った声が、無理矢理私を現実に引き戻そうとする。

「えと、机の上にある緑色のファイルです」

「ちょっと待て」

次第に遠くなる電話の向こうの3課の様子。
目の前に座っているモデルは、私を見て微笑んでいる。

あぁ、このお姿を記憶に永遠に留めておきたい

「ファイルとあと何が必要だ」

電話の中からの声が、無情にも現実に引き戻す。

これから新規のクライアントさんに行くんだった。
真っ赤になった顔をそらして、頭をフル回転させ

「あと、足元に置いてあるサンプルの入ったトートバッグです」

「わかった。今日は課長が本社で会議中です。私が同行するので、そのままそこで待たせてもらってください」

冷静な大野課代。

「前田ホームさんまで同行してもらえるんですか?」

「そうだ。だからおとなしくそこにいろって言ってんだよ」

いろいろ言いたいことはあるけど「ありがとうございます」とお礼だけ言って通話を終えると、また異世界の静けさに包まれた。
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