やく束は守もります
ゆるやかな風が吹いて、川沿いの桜が葉をさわさわと鳴らした。
一月前はあんなに華やかな姿だったのに、今は息をひそめるように静かなささやきだった。
その桜並木に続く道の前で、梨田が足を止めて振り返る。
「カズキは、こっち?」
梨田が指さしたのは国道を直進する道だったので、香月はこくんと頷いた。
「ガソリンスタンドの向かいを右に曲がったところ」
梨田はずっと続く国道の先を見て、それからふわっと笑った。
「そっか。おれも同じ」
梨田が少し前を歩き出したので、少し走って隣に並んだ。
「最初、カズキって男だと思ってた」
「驚いてたよね」
「なんで『カズキ』っていうの?」
一瞬立ち止まって、スニーカーの踵に書かれた『杉江香月』の文字を見せる。
「ちゃんと女の子の名前だよ。最初は『香歩』って名前にしようと思ってたんだって。『香車』の『香』と『歩』」
「お父さん、将棋好きなんだな」
「すっごく狂ってたみたい」
「今は?」
「私が生まれる前に事故で死んじゃった」
梨田の足が止まったので、振り返る形になった。
逆光でその表情は読み取りにくいけれど、眉間に寄った皺ははっきりと見えた。
「あの、ごめん。おれ・・・」
「大丈夫。わたしが生まれた時にはいなかったから、寂しいなんて思ったことない。お兄ちゃんたちもいるし」
あっけらかんとした返答に、梨田は少しほっとして、ふたたび歩き出す。
「お父さんの名前が『和樹』だったの。それでお母さんが『香月』って字にして名前を付けてくれた」
「お父さんの名前だったんだ」
「ひらがなで書いても違うよ。呼ぶと同じだけど」
「『香車』はいいよね」
梨田の視線は、終わりの見えない、真っ直ぐ伸びた国道を見ていた。
「どうして?」
「香車は前にならどこまでも行けるから。後ろにも横にも行けないところが格好いい」
盤の上を香車が真っ直ぐ走っていく姿が目に浮かんだ。
自分の名前の由来でもあるから『香車』にはそれなりに思い入れがあったけれど、そんな風に考えたことはなかった。
香月にとって、この瞬間、香車が何より好きな駒になった。
あんなに遠く果てなく感じた道も、梨田と会話しているうちに、いつの間にか家の前に着いていた。
ずいぶん夜が深くなっていて、梨田の表情もはっきり見えない。
「じゃあ、わたしの家はここだから」
自転車に跨がる梨田に、ずっと気になっていたことを問いかける。
「男爵の家ってどの辺なの?」
梨田は道の向こうを指さす。
「ここからもう少し先。あっちの方」
「近いの?」
「自転車ならすぐ」
「そっか。気をつけてね」
家の中に入ると、脚がぐったりと疲れ切っていた。
こんなに歩いたのは久しぶりで、倒れるようにソファーに沈み込む。
すぐにトロトロと眠りに誘われながら、香月はおばあちゃんに電話することも忘れて、楽しかった時間を思い出しながら意識を手放した。