スイート・メモリー
スイート・メモリー(後篇)
 彼とのデートの約束の日まで、美来と里沙さんに、うまくいってよかったね、なんて、
 散々茶化されたけど、私の本心は、それどころではなかった。

 颯太くんのことが、どうしても思い出せない。
 彼らは兄弟で、将樹さんはお兄さんの方で、
 私が好きだったのは、颯太くんの方。
 実家の近くに住んでて、母親同士も仲良くて、それで……、

 小学校へは、一緒に通った? 
 放課後に、なにして遊んだ? 

 子供の頃の、初恋の思い出なんて、そんなに記憶に残ってないもんだと言われれば、
 そうなのかもしれない。

 だけど、私には、気がつけば、小学校の思い出が、何一つ残っていない。
 クラスのことも、教室のことも。

 仲のよかった友達は? 
 担任の先生は、どんな人だった?
 
 覚えているのは、小学校の校舎の外観だけ。
 それでは、思い出とは言えない。

「待った?」

 待ち合わせ場所に現れた将樹さんは、
 紺色のパンツに合わせた、ジャケットにボーダーのTシャツ姿。
 先に来ていた私に挨拶を済ませた後で、片袖を持ちあげて、腕時計を確認する。

「うん、ちょうどいい時間だね」

 私たちは、並んで歩き出した。

「弟さんは、颯太くんは、今、どうしてるんですか?」

 その質問に、将樹さんは笑って、ちゃんと答えてくれない。

「なに、思い出せないの?」

 その台詞に、『はい、そうなんです』とは、
 さすがに失礼すぎて、答えられない。

「いえ、どうしてるのかなって、ほら、顔を合わさなくなってから、
 ずいぶん経ってるじゃないですか」

「どうして、顔を合わさなくなった?」

 頭の芯がくらくらする。
 脳内に残されているはすの、子供の頃の記憶を、必死で辿る。

「えっと、引っ越したから」

「ふふ、正解」

 将樹さんは、私を試すかのような質問を、なかなかやめてくれない。

 将樹さんの案内で、オープンテラスの、お店に入った。

「ここで、ランチを食べていこう」

 五月の風が吹く。
 先に出されたアイスティーのグラスの中で、氷がカランと音をたてた。

「で? 他に覚えてることは?」

 将樹さんは、ほおづえをついて、私を問い詰める。

「えっと、小学校の時は、同じクラスでした」

「本当に?」

「多分」

「それは、僕も覚えてないな」

 将樹さんは、ストローで氷をかき混ぜてから、一口飲んだ。

「他には?」

 そう続けざまに聞かれても、私には何一つ記憶がなくて、
 もうそれ以上答えられない。
 黙ってうつむいた私に、将樹さんは言った。

「初恋の人だっていうのに、覚えられてないなんて、弟もかわいそうだね」

「そ、そんなことはないです!」

「じゃあ、言ってみて」

 どれだけ記憶を辿っても、どうしても思い出せない。
 将樹さんは、そんな私から、言葉が出てくるのを、じっと待っている。

「すいません、本当は、何にも覚えてないんです」

「やっぱり、そうなんだ」

「覚えてないっていうか、思い出せないんです」

 食事が運ばれてきた。黄色い卵のオムライス。
 将樹さんは、大きなスプーンを手に取った。

「食べながら、話そう」

 一さじすくって、口に入れる。
 それを飲み込んでから、将樹さんは言った。

「僕の知っていることから、教えてあげる」

 私は、目の前に置かれたオムライスを見ながら、
 仕方なくスプーンを手に取る。

「将樹さんの、知ってることですか?」

「うん、そうしたら、君も、何か思い出すかもしれないでしょ?」

「私に、記憶がないことを、ご存じだったんですか?」

 将樹さんは、それには答えずに、オムライスを口にした。

「その日、僕は、サッカーの試合があって、参加していなかった。
 君と颯太は、他の子供会のメンバーと一緒に、バスに乗ってスケートリンクに出かけた」

 小学五年生の冬、私たちは、マイクロバスに乗って、
 地元のスケートリンクに向かっていた。
 楽しみにしていた、毎年の恒例行事。そこで、事故にあった。

 よみがえる記憶、乗っていたバスが、急ハンドルを切った。
 そのとたんに、突然ふりかかった全身の痛みと、響き渡る悲鳴、
 血だらけの友達と、動かなくなった男の子。
 立ち昇る炎と煙に、私は息が出来なくなって、そのまま意識を失った。

「君は、一ヶ月近く入院して、僕たちの一家は、その間に引っ越してしまった。
 事故の有無に関係なく、すでに予定されていた引っ越しだったからね」

 手にしたスプーンが、こぼれ落ちる。
 私はその日以来、それまでの記憶を失った。
 それ以降も、高校生になるまで、ほとんど記憶がない。
 無意識に、みかん箱の写真と一緒に、心の奥に押しとどめて、
 ずっと封印されていたのだ。

「大きな怪我をしたって聞いたけど、無事でよかった。
 記憶を無くしていることも、母親を通じて知ってはいたけど、
 まさか、こんなかたちで再会出来るなんて、思いもしなかった」

 震える手を、将樹さんの大きな手が、包み込む。

「頼むからさ、ここでは泣かないでよ。
 これじゃまるで、別れ話をこじらせて、僕が泣かせてるみたいじゃないか」

 その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
 泣き出してしまいそうだった私の涙も、なんとか踏みとどまった。

「ちょっとは、思い出した?」

「はい」

 目が覚めた病院、そこからの、過酷なリハビリの日々、
 小学校と中学校には、まともに通えなかった。

「急ぐ必要はないから、これからちょっとずつ、思い出していこう」

 将樹さんは、にっこりと微笑む。

「君自身のことも、颯太のことも」

「はい」

「よかった。ほら、冷めないうちに食べて! それから、颯太に会いに行こう」

 また涙ぐみそうになった私に、将樹さんは笑顔でオムライスを口にした。

「でもさ、それでも、颯太のことは、覚えていたんだね」

「申し訳ないくらい、ほんのちょっとですけどね」

「それだけでも、颯太はうれしいと思うよ」

 食事をすませてから、私たちは店を出た。
 途中で見かけた花屋さんに、立ち寄る。

「花を買っていこう」

 色とりどりの、にぎやかな店内。
 その中でも、将樹さんは、特に華やかな花を選ぶ。

「菊、じゃ、ないんですね」

 そう言ったら、将樹さんは笑った。

「ま、菊でもいいんだけど、どうせなら、かわいい花がいいかなって思って。
 奈々ちゃんは、どんな花が好き?」

 私が選んだ花束を、将樹さんは店員に渡した。

「あ、お金、私も出します」

「いや、いいよ。これくらいはしとかないと、後で怒られそうだからね」

 将樹さんは、なぜか照れたように笑った。

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