俺様外科医に求婚されました



ひたすら前だけを見て駅まで辿り着いた私は、足早に改札を通りタイミング良く到着した電車に乗り込んだ。

いつもは息苦しさを感じる朝の通勤ラッシュだけど、今日は何故だかその空間がホッとする。

慌ただしい人混みの中にいる方が、さっきよりもずっとラクだ。


なのに、どうしてなんだろう。
思い出せばたまらなく苦しくなって。
胸が締め付けられて、こんなにも痛むのに。

考えないようにしなきゃって、思っているのに。
どうして諒太のことが、頭から離れてくれないんだろう。


窓の向こうの移り変わる景色を見つめながら、浮かんでくる過去の記憶に私はそっと目を閉じた。


「これが契約書よ。ここにサインをして」


ペンを握る私の手は、あの時震えていた。
涙で見えなくなっていくたくさんの文字を見つめながら、諒太の言葉を思い出していた。


「俺は、理香子がいればそれ以外は何もいらない」


私だってそうだった。
私だって、諒太がいればそれだけでいいと思っていた。

思っていたのに…。


「必要なものは全てこちらで用意するわ。お母様の入院費用や医療に関わるその他諸々、それからあなたの新しい働き口と、新しい住まいも」


淡々と並べられるそんな言葉を、あの時の私は受け入れることしか出来なくて。


「それから、もう一つ。相沢とーーー」


理事長から言われた最後の一言を聞いた瞬間、それだけは出来ないと泣きながら訴えたのに。


「…わかりました」


最終的には、私はその言葉を飲み込むことしかできなかった。



そして五年前、私は諒太との約束の日。

私を待つ諒太の背中に、遠くからサヨナラを言った。

言って、泣きながら消えた。


ウソをつき、諒太を騙して。

私は諒太の前から、いなくなったんだ。


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