【番外編追加中】紳士な副社長は意地悪でキス魔
しばらくは放心状態だった。ワンルームの部屋にある彼の服や歯ブラシを処分しなくちゃと頭ではわかっているのだけれど、ごみ箱に放ることができなかった。携帯の中に納めてある写真もカバンの中にいれて持ち歩いている初プレゼントのペンダントも、そこにあるのが当たり前で、消すことができずにいた。

頭ではわかっているのに……。ため息がもれる。
でもため息は出ても、涙は出なかった。

大人になる、ってこういうことなのか、とも思った。初恋の先輩に彼女がいることを知ったときは部室で号泣したし、大学時代に恋人と別れたときもサークルの友人に泣いて愚痴をこぼした。

28歳にもなると、心に柔軟性がなくなるのか、いや、むしろ柔軟性を持てるからこそ涙を流さずにいられるのか、と自己分析しているほどだった。どこか冷静だった。

ところが。後輩の武田さんに「藍本さん、なにかありましたか?」と声をかけられ、ちょっとね、と返した。女子力の高い彼女はすぐに察知したらしい、私が恋人と別れたことを。

『じゃあ飲みに行きませんか?』

と誘われ、今に至る。武田さんは入社当時から面倒を私がみていて、可愛い妹分だった。最近は私が煮詰まるとサラッとフォローしてくれることもある。



「藍本さん、そろそろ帰りましょうか」
「そうね。帰ろうっか」
「タクシー呼びます」
「電車で帰れるって」


立ち上がってカバンを持とうとするけど、クラクラして手がカバンの持ち手に到達しない。お店のスタッフと武田さんに両方から抱えられ、外付けのタクシーに乗り込んだ。

ドアが閉まり、ゆらゆらと揺れ出したシートに急に眠気を感じた。
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