優しいスパイス
温度の消えた手首に、冷たい空気が当たる。



背後にあった気配が、スッと動いて私の横を通りすぎた。



目に映った予想通りの彼の後ろ姿。



さっきまでゼロに近かった距離が、二歩、三歩、と離れていく。



行ってしまう。



「待って」



思わず身を乗り出して叫ぶと、彼がピタリと足を止めた。



はっと息を呑む。



自分で待てと呼び止めておきながら、緊張が体を駆け抜ける。



立ち止まった彼がゆっくり振り返って、いつもと同じ優しい色を含んだ切れ長の瞳と、視線が繋がった。



「あ、」



漏れ出た声に反応するように、彼の表情が緩んだ気がして、トン、と胸の奥が音を鳴らす。



「こわがらせて悪かった」



低く落ち着いた、静かな声。



そのわずかな空気の振動が鼓膜を震わせた瞬間、心臓がぎゅうっと締め付けられた。



どうして。

なんで。



叫びたいのに、声にならない息だけが喉をすり抜けていく。



「早く戻ろう」



黒い服の女性の声で、彼の視線が外れた。



「ああ」



短く答えて彼女に視線を移した彼の後ろ姿が、また遠くなっていく。



待って。



叫ぶ声は音にならないまま、彼の遠くなる後ろ姿を見送る。



一歩、踏み出した足の小指が、硬い何かに当たった。



「いっ、」



痛みに身を屈めて、ぶつかった小指を摩る。



どうやら床に置かれた木箱の角で打ったらしい。



じんじんと尾を引く痛みに耐えながら、もう一度彼らのいた場所に視線を上げると。



目に映ったのは、誰もいない研究部屋。



慌てて見回してみても、もう、二人の姿はどこにもなかった。
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