芳一類似譚


闇がもっとも深くなる頃、首の右側で走っていた筆が、ついに止まった。

「魔除けって、何から花嫁を守りたいのでしょうね」

突然人の気配をさせた僧から、生え際の産毛をわずかに震わせるだけの呼気が届く。
祈りを捧げた姿勢の花嫁に、その表情を知るすべはない。
ことりと筆を置く音が、初めてこの部屋に響いた。

「嫁入りの儀式が満月の夜、とされている理由も、なぜだか知っていますか?……ああ、でも今夜は曇ってきましたね」

ゆっくりと顔を向けると、わずかに微笑んだ彼と視線が合った。
その眦は、筆を持った時のそれとはまるで違う。

「天の加護は、なさそうです」

生々しき欲の発する色香を受けて、花嫁は、一心に合わせていた手を、ほどく。

「わたしが、ずっと祈っていたから。闇を」

月下で輝くはずの文様は、蝋燭の灯りで不穏に揺らめいた。

僧は、一度置いた筆を手に取り、たっぷりと水を含ませる。
そして描き終えたばかりの文様の上に一閃、鋭く走らせた。
穂先から溢れた滴が、首筋から白い衣の内側へと滑り落ちていく。

「私がこの仕事を選んだのは、今夜のためでした。あなたに許嫁がいるとわかった、あの幼い夏の朝です」

熱い親指で強く擦ると、完璧に施された文様が、切れた。
後に残るのは、紅い指跡と熱。

「魔除けの魔とは、誰のことだと思いますか?」





朝日は、厚い雲の向こうで昇った。
弱々しい明るみが差す部屋には、消えた蝋燭と、針と違えそうに細い筆と、牡丹、山吹、常磐、碧、藍、そして純白の衣。

僧と花嫁と、激情の緋の衣は、天の加護の届かぬ、雲の彼方。








 了


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