不埒な先生のいびつな溺愛
勢いで電話に出て、はあはあと息が上がったまま、先生の返事を待った。
何も聞こえてこない。

横断歩道の前だった。歩いたまま話す余裕はなく、私は足を止めていた。信号もちょうど赤になった。

私は一分くらい待った。でも何も言ってはくれない。
間違い電話?そんなわけない。

先生……。

「……あの」

電話の向こうはとても静かだ。きっと先生は家にいるのだろう。
小説を執筆している最中は電話をしないだろうから、きっと書斎ではなく、リビングか寝室にいる。

なぜか寝室のような気がしていた。

ベッドに腰掛けて、きっと携帯を耳にあてている。そして話すタイミングを探していた。

『美和子。……ネクタイあった』

体中の力が抜けていくようだった。

横断歩道の信号は青に変わり、人々は進んでいく。その波に流されていけばいいだけなのに、私は足を停めたまま、動けなかった。

先生の掠れた、吐息のような声。
電話越しだと、よけいに耳に絡み付いてくる。

「そう、ですか、よかった……」

思えば、私から聴こえる電話の音はとても静かだが、私は外にいるのだから、先生にはザワザワと煩く聴こえているはずだ。

もしかしたら、その音を聴いていたのかもしれない。

「それでわざわざ電話を下さったんですか?」

『……悪いかよ』

先生の気持ちは全然分からないけれど、私は胸がいっぱいになっていた。
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