淡雪
「その許嫁殿には申し訳ないことですがね。お父上の昇進がなされなかった場合は、お別れ頂くことになりましょうな」

「ほ、本気なのですか?」

「黒坂様もねぇ、いつまでも手に入らない昔の女子に溺れてないで、現実を見て欲しいものです」

 ぴく、と奈緒の顔が強張った。
 そんな奈緒の心の内を知ってか知らずか、小槌屋は話を続ける。

「今日もいそいそと出かけてましたが、全くあの女子のためだけには、まめに動く人なんでねぇ」

「あ、あの……。その方って、どういった方なんです?」

 震えそうになる声を必死で抑えて言う奈緒を、相変わらず小槌屋は面白そうに見た。

「あ、だってその、そんな方がいるのに、何故小槌屋さんはあんなことを言ったのかなって」

「ああ、左様ですなぁ。いや、お気を害されましたかな? でもま、私の親心とでも申しましょうか、いつまでも過去の女子に囚われている黒坂様を、お嬢様に救って欲しいと言いますか」

「過去の女子……?」

 どきどきとうるさい胸を押さえながら、奈緒はただ小槌屋を見つめた。
 聞きたい気もするが、聞いてしまうのが恐ろしい。

 だが多分、聞けばここしばらくのもやもやは晴れるだろう。
 晴れた後に何があるのかはわからないが。

 小槌屋が煙管を咥え、ぷか、と紫煙を吐き出した。

「黒坂様が会っているのは、招き屋っつぅ大店の花魁ですよ。音羽(おとわ)って言ったかね」

「お、花魁?」

 色町の花魁など、そう会えるものではない。
 しかも黒坂は色町に行っているわけではないではないか。
 もしかして舟宿で会っていたのは、本当にただの商談の相手だったのだろうか。

「音羽ってのは特殊でね。招き屋は、通常遊女には許されないであろう行動も、音羽なら許しているそうなんです。相当な売れっ妓なだけに、ついている旦那衆もかなりな人物だし、黒坂様のことだけ目を瞑れば、後は何ら問題ない花魁だからだろうって話です」

「置屋が、間夫を認めてるってことですか」

「そういうことになりましょうか。もうちょっと言えば、間夫との逢引きを許してるってことです」
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