淡雪
「まぁ武家のご隠居なども、舟宿を拠点に釣りを楽しんだりしますがね。奈緒様には、ちと早いですなぁ」

 ははは、と小槌屋が相槌を入れる。

「そういえば、小槌屋は舟雅という宿を知っておるか?」

 不意に良太郎が、思いついたように言った。
 ぴく、と黒坂が密やかに反応したのを目の端に捉えつつ、小槌屋は意味ありげな目をして見せる。

「……ほぉ? 伊田様も、なかなか隅に置けませぬな」

 にやにやと言ってみると、良太郎は赤い顔で、いやいや、と手を振った。

「私は実際利用したことはない。だがまぁ、そっちの事情を知っている者の間では有名な宿だろう? そこのことをいきなり聞かれて面食らった。もっとも奈緒殿も、詳しくは知らないようだったが」

「大胆なお嬢様ですな」

「違う違う。奈緒殿は左衛門殿が昔釣りをよくしていたので、純粋な舟宿と思ってのことだったんだ。有名だと聞いて、飯でも食いに行ってみたくなっただけだろう」

 笑いながら言っていた良太郎が、ふと真顔になった。

「……うん、あのときも、いきなり駆け出して行ったし。何だかいきなり人が変わったようになるというか。奈緒殿ではない誰かのようになる感じなんですよね」

「……ふぅん。ま、慣れないことの連続で参ってるのかもしれんし。あんたが支えてやりゃ大丈夫だろ」

「そうですね。私までがおかしくなっている場合ではない。では小槌屋、奈緒殿の借財については、こちらでお支払いするということで」

 何か吹っ切れたように、良太郎は金吾に言うと、座を立った。

「これで、奈緒がどう出るかだな」

 良太郎を見送った金吾が戻ってきてから、黒坂が呟いた。
 良太郎はすぐにでも、奈緒の借金を補填するだろう。

 その時点で黒坂とは切れる。
 契約ではなくなるのだから、奈緒がいくら求めたところで拒めるわけだ。

「奈緒の目が覚めてくれりゃいいんだが」

「そうですねぇ。黒坂様に嫁ぐ必要がなくなったら、お嬢様も揚羽を捕まえておく必要もないわけですし」

「揚羽を救い出しやすくなったはずだしな。無事であればいいんだが」

 一番の心配事はそこだ。
 髪の毛を切ったということは、刃物を持っていた、ということで。
 考えたくないが、最悪の事態だって起こり得るのだ。

 改めて、黒坂は揚羽の髪をまじまじと見た。
 注意して見ても、血はついていない。
 揚羽を刃物で殺してから髪を切ったのであれば、必ず血がつくはずだ。

「でもいい加減に揚羽を救い出さないと、殺されてないにしても体力的にやばい。明日、稲荷神社に行ってくる」

「稲荷神社ですかい」

 怪訝な表情の小槌屋に頷き、黒坂は刀を握り締めた。
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