淡雪
「揚羽をどうしたんだ?」

 静かに言うと、ぴく、と奈緒の肩が揺れた。

「あ、あれはあの子が悪いのですよ。私の言うことを聞かないから……」

 一瞬怯えたような目になったが、すぐにその目が吊り上がる。
 黒坂から目を逸らし、奈緒は吐き捨てるように言った。

「初めにも言ったが、あんたの借金はなくなったんだ。もう音羽にちょっかい出しても無駄なんだよ」

「嘘だっ! そんな……今更そんなっ!」

 持っていた風呂敷包みを落として、奈緒が取り乱す。

「落ち着け。何をしたんだ? 揚羽は……」

 腕を掴もうとした黒坂の手を、奈緒は思い切り振りほどいた。
 そしてそのまま駆け去っていく。

「おい!」

 奈緒を追おうとした黒坂だが、ふと足元に目をやった。
 奈緒が落とした風呂敷包みが解けて、中がちらりと見える。

 黒坂は屈んで、それを手に取った。
 中から出てきたのは握り飯だ。

「……何で……」

 呟き、はっとする。
 これは揚羽に持ってきたのではないか?

 どこかに閉じ込めて、餓死しないように食事を運んでいるのではないだろうか。
 毎日とはいえ、一日一回程度であれば、そう大変でもないだろう。

 黒坂は林に足を踏み入れた。
 この神社にはよく来るが、林の奥には入ったことはない。

 奥のほうに、古い社殿でもあるのかもしれない。
 そう思ったが、大分奥に進んでも、特に建物は見当たらなかった。

 ここではないのだろうか。
 昼なお暗い林の中とはいえ、全く誰も来ないわけではないだろう。

 現に奈緒が襲われたときも、浪人たちはこの中に連れ込もうとしていた。
 怪しげな者ほど、こういうところに入り込むということだ。
 そう考えると、この辺りに古い建物があっても閉じ込めるには安全ではない。

 ちら、と黒坂は、さらに奥に目をやった。
 もう少し先に、しめ縄が見える。
 あそこより先は禁足地だ。
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