花の名前

2

 会社を出た時点で、夜の10時を回っていた。

 救急外来があるなら診てもらえるだろうと当たりを付けて、アパートを出る前に電話をかけ、熱が高くぐったりしている―――と、ちょっとオーバーに盛って伝えていたのだけど、実際に病院に着いた時、カズはホントに意識が無くて、急遽、担架で運ばれるハメになった。

 ―――インフルエンザ、恐るべし。

 現状、インフルエンザには特効薬というものが無いらしく、とりあえずカズは、点滴を打つことになった。
「40分位かかりますけど、どうしますか?」
 処置室から出てきたベテランっぽい看護婦さんに、そう聞かれて一瞬考える。隣で見てても仕方が無い…かな?
「この辺りにATMのあるコンビニありますか?」
 例によって、持ち合わせが少なかった。保険証もわからないし、実費となれば結構な金額になるはず―――そう言ったら、看護婦さんに支払いは後日になると言われて驚いた。何でも夜間は会計さんがいないので、計算出来ないらしい。

「どちらにしても、貴女が払う必要はありませんよ。」

 不意に背後からそう言われて振り向くと、白衣を着た女医さんらしき人が立っていた。
 薄く微笑んだ柔和な顔に、なるほど、と思う。
 どうやらカズは、母親似のようだ。

 どうも、とお辞儀する。とりあえず、自己紹介は必要だろう。
「…初めまして、初島透子です。」
「和臣の母です。―――ずいぶん世話をお掛けしたようですね。」
 どっちかっていうと、私よりは例の“彼”の方が世話を掛けられてたかな…と思いながら、曖昧に微笑んで遣り過ごす。正直、どう話していいかわからない。一緒に暮らしていると、伝えていない可能性もあるし。
 それでもここに連れてきたのは、やはり確実に治療を受けさせたいという気持ちからだった。最悪断られても、名前を出せば診てもらえるんじゃないかという打算があったし、それに、なんとなく、カズは放っておくと病院に行かない気がしたから。

「あなたは、大丈夫ですか?」
「え?」
「同じ家に住んでいると、伝染りやすいですから。キス等は特に。」
 はい?!―――と、声を上げなかった自分を褒めてやりたい。大丈夫、たぶん、顔にも出てないハズ…。
「潜伏期間が長くて一週間から1日2日…、熱が下がってからも10日ぐらいはウイルスが残ってますから、出来るだけ接触は避けて下さい。」
 潜伏期間―――3日前はそれにあたるんだろうか…と何となく遠い目になってしまうのはしょうが無いと思う。
「まあ、必ず伝染る訳じゃありませんけど、仕事に行く時は拡散防止にマスクを着けられる事をお勧めしますよ。」
「拡散防止…ですか?」
「飛沫感染が1番多いですから。ウイルスは体液に多く含まれるので、咳をすると空気中に放出されて良くないんですよ。発症前から感染力のあるウイルスですしね。」
 体液―――唾液の事か。…飲んだね、うん、思いっきり。
 思わず手で額を押さえると、クス、と声がして、顔を上げると誰かさんとそっくりな笑顔がそこにあった。
「否定しないんですね。」
 それはどういう意味だろう?―――疑問が顔に出ていたのか、彼女は更に苦笑して、処置室の方を見やった。
「あまり話をしてくれないので…一緒に暮らしている人がいるとは聞いていたんですけど。」
 なるほど…要するに鎌を掛けられた訳か―――ヘンな所に血の繋がりを感じて、生温い気持ちになる。そう思うと、こっちに向けられた優しげな笑顔も胡散臭く見えてくるから不思議だ。患者さんには、人気がありそうだけど。
 とりあえず、誤解は解いておいた方が良さそうだ。母親としては、息子の恋人という存在は気になる所だろう。
「あの…」
 言いかけて、止まってしまった。ただの同居人です―――と言い切るには微妙な(?)接触があった事を、つい先程、言外に認めてしまった(らしい)だけに。でも。
「…恋人では、無いんです。」
 何だか気恥ずかしさを感じながらも、とりあえずは事実なのでそう伝えると、彼女はちょっと首を傾げるようにして、でも面白そうに微笑んだ。そういう所も似てる。
「そうですか。…ご迷惑をおかけしてないといいんですが。」
 これもまた、回答に困る。迷惑だとは思わないけど―――そう思いながら、処置室に目を向けた。
 点滴が終わった後、どうするか。
 インフルエンザは熱が下がるまで、何日かは寝込むことになる。仕事があるから付きっきりで看てやる事は当然出来ないし、このまま実家に帰るのも選択肢としては有りだと思う。
 正直、キスの事は置いておいて、単純に心配だからという気持ちが強かった。
「働いているので、日中は家に居ないんです。―――出来ればこのまま、ご実家の方で看て頂いた方が、私も安心出来るんですけど…」
 本人の意向を無視するのはちょっと躊躇われる。だって、カズだし―――そう思ったら、ちょっと笑えてきた。何となく、嫌がるだろうというのがわかって、子供じゃないんだから、と微笑ましくなったのだ。
「本人が戻ると言うなら連れて帰ります。何か、注意点とか、ありますか?」
 そう聞くと、彼女はちょっと驚いた顔をした後で、穏やかに微笑んだ。その顔が、何だかとても母親らしく感じて、少し気持ちが温かくなる。
「そうですね、とりあえず、マメに水分を取るようにして…汗を沢山かきますから、着替えもさせて下さい。出来るだけ部屋を暖かくして、乾燥しないように加湿も十分にしてもらえると助かります。」
 濡れたバスタオルを掛けておくだけでも効果があると言われて頷く。寒くて乾燥していると、ウイルスが活発になるのだとか。やっぱりお医者さんなんだな…と思う。
「あと、同じ部屋に居るときは、マスクをするようにして下さい。手洗いもマメに心掛けて。」
「わかりました。」
 再び頷くと、彼女はまたふふっと笑って肩を竦めた。
「貴女のような人で良かった。」
 正直、心配だったのだ、と続ける。
「あの子は、生きることに貪欲で無いから…仕事も、食べていける分だけ稼げばいいとか言って。教職に就いたと聞いて驚いたんですよ、人と関わるのもあまりしたがらなかったから。」
 そう言って、視線を落とす。

 人はいつか死んでしまうから―――と。
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