花の名前

5

「トーコさん、大丈夫?」

 不意に声をかけられて我に返った。
 前を向いたまま、「大丈夫」とブラッドオレンジのグラスに口をつける。
 なら、いいけど…と、言いながら、カズがこっちに手を伸ばして、指の背で頰をそっと撫でる。
 胸がとく、と音をたてるのを、誤魔化すように視線を伏せた。ホント、どうしたら良いんだろう、“これ”。
 すると、戸惑いを見透かすように、あらあら、と亜衣子サンが声を上げた。

「少しは進展があったのかしら…良かったわねぇ、トーコちゃん鈍感さんだから、心配してたのよ~」
 怪我の功名ってやつかしらと朗らかに言われてぎょっとする。思わずカズを見ると、澄ました顔で肩を竦める。
「”ものや思う“君が”問うかな”ってね。」
「あら、カズ君は別に“忍んで”なかったでしょ~?」
「まったくですね。」
 あははと言う亜衣子サンの笑い声を聞きながら、ため息をつく。

 忍ぶれど 色に出にけりわが恋は 物や思うと 人の問うまで

 誰にも秘密にしていた私の思いは、自分でも知らない間に表に出ていたらしい、どうかしたのかと人から問われる程に―――有名な百人一首の歌だ。

 肝心の私だけが気付いてなかった…と言いたい訳か。
 そうは言われてもね―――



  今日、出勤して直ぐに、皆に大丈夫かと声をかけられた。
「ずいぶんやつれたわねぇ…」
 と言ったのは、経理の佐藤さんだ。あんまり食べてないんじゃないの?と聞かれて、昨日点滴受けてるんで大丈夫ですよ、と答えたら、隣で聞いてた後輩君が、うわー、と声を上げた。
「何か、声も掠れてるっていうか…。低音でちょっと色っぽいっすね。」
 と言って、頭を叩かれていた。うん、ちょっとセクハラかな?しかも君が言わないで、八木君―――つい遠い目になってしまった。
 しかもまた“っす”―――ペナルティ表に印付けてもダメなんだよ、もう。昨日禁止令出されちゃったからね…。

 思わず盛大なため息を付く。
 正直、カズが意外だった―――。




「待って、ちょっと、待って…」
 必死の思いで腕を抜け出した。
 肘を突いて体を起こし、震える腕で辛うじて残っていたブラジャーをかき寄せるように、自分で自分を抱き締めながら、酸素を求めて大きく喘ぐ。
 なのに、息を整える暇も無く、背中にひやりとした柔らかな感触が押し当てられて、ビクッと背中が仰け反った。
 カズの腕がお腹に回って腰を引き寄せながら、反対の手でお尻から腿を滑るように撫でて、腿の内側の柔らかな場所を揉む。慌ててその手を掴むと、今度は反対の手がブラをかき分けて胸を掴んだ。


 明日は仕事に行くつもりだった。
 1週間も休んでしまったから、お詫びも兼ねて何か持って行こうと、病院から帰る途中でお店に寄って貰うことにしたのだけれど。

「和菓子?洋菓子?」
「洋菓子かな。八木君、餡子食べれないから。」
 たったそれだけの事だったのに。


「カズ、止めて、待って!」
「嫌だ。」
 抗議する唇を塞がれる。
「もう1日休めばいいよ。“八木っす”君に仕事して貰おう。」
 何勝手な事を―――とは、再び唇を塞がれて言えなかった。
 いったいなんでこんな事になってるのか、混乱する頭では思いつかない。
 家に帰るなり、カズは私の膝を掬い上げて抱き抱えると、そのまま自分の部屋に入ってベッドに押し倒したのだ。

 正直、手慣れてるにも程があると思う。
 キスをしながら、片手でスキニージーンズを脱がすとか、出来るもんなの⁈
 前開きのシャツは、大きさからいってカズのだったんだけど、まさか計算ずくで持ってきてたんじゃないでしょうね?
 口の中を蹂躙するようなキスで翻弄されている間に、あっという間に裸にされてるなんて、初心者にはついていけないんだけど‼

 背中から覆い被さるカズが、鼻先で耳の穴をこじ開けるかのようにしながら、トーコさんが悪い…と低く囁き、責めるようにきゅっと胸の先端を強く捻る。
「ちゃんと寝かせてあげるつもりだったのに…」
 だから、言ってる事とやってる事を一致させて‼


 残業の時には甘いものが欲しくなるから…という気持ちからだったのに、連れて来てもらったパティスリーで色々と吟味している内に、カズの笑顔が冷気を帯びてきた。
 だって、自分の休み中、1番迷惑を被るとしたら八木君なんだよ?と抗議したら更に。

 2年後輩の八木君には、書類作成でいつもお世話になっている。確認申請といって、建築予定の建物は法令に則って設計されているかを行政にチェックされる必要があり、その為の設計図書作りが新人の主な仕事だからだ。
 デザイン系の建築事務所に入ったのは設計がしたいからだから、彼も入って直ぐの頃は、事務仕事に不満を漏らしていた。
「建築士受けるんでしょ?勉強がてらだと思ってしっかりやろう?」
 学科試験で出る法規は、法令集の持ち込みが可だ。答えが書いてあるとはいえ、解釈出来てないと意味が無いが、逆に言うと、キチンと理解出来ていれば攻略しやすい科目といえる。
 業務時間中に公然と試験勉強出来ると、俄然やる気を出した八木君は、元々頭が良く、すっかりその道(?)のエキスパートになりつつあるのだけど、体育会系なのか、語尾に“~っす”が付くという悪癖があった。
 いずれ施主(クライアント)と話をするようになった時困るからと、“っす”1回につきペナルティ1回を付けて、30回―――最初10回にしたらあっという間に溜まってしまったので―――溜まったらランチを奢って貰うという話にしたのだけど…。


「何で2回もランチに連れ出されて気付かないの?」
 言いながら容赦なく続けられる愛撫に思考まで溶かされていくようで、何も言えないまま浅い息を繰り返す唇を塞がれる。
 味わうように舌を絡め、吸う。もう何度となく繰り返されたキスに、唇が腫れてしまったような気すらしてくる。
 離れていく舌先を追いかけるように目を開けると、直ぐ側にカズの顔があって、切なげに目を細めていた。

 どうしてなんだろう、と、ボンヤリと思う。
 カズは時折、こんな顔をする。
 どこか、何かに、おびえているような―――?

「何考えてるの? 仕事の事?…八木君の事?」

 言い終わらない内に、唯一残ったショーツに手がかかる。
 ぎょっとして、咄嗟に手で押し留めながら、必死でベッドの隅へ逃げた。
 大きく息をついて、カズを睨み付ける。
 こっちは肩で息をしてるっていうのに、カズは息一つ乱さずに、平然としながら髪をかき上げている。
 それすらも色っぽくてドキドキするとか、どんだけなのよ⁈
 しかもこっちは、ほぼ裸だっていうのに―――‼

「脱いで。」
 意外にハッキリと言うことが出来た。一瞬、カズの表情が固まる。
「いいから脱いで!」

 たぶん、ちょっとおかしくなってたんだと思う。
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