花の名前

3

 咄嗟に息を止めた。

 覆い被さるように唇を塞がれて、頭の後ろを手の平で強く押さえ込まれ、身動きが出来ない。

「っ、ふ…」
 辛うじて塞がれてない片方の鼻から息を吸うけど苦しい。
 抗議するように、薄手のセーターを掴んで引っ張っているつもりだけれど、頭がクラクラして意識が霞んでいく。

 十数えるよりも、長い―――?

 かく、と、膝が折れたと思ったのが最後だった。




「いらっしゃいませ。」

 カウンターに立つ思わぬ人を見て驚いた。
「あれ、ここで働くようになったんですか?」
 確か、元々の店で働いてたって言ってたっけ?
 するとすぐ隣の亜衣子サンが苦笑しながら、“彼”の肩を叩いた。
「違うわよ~、今日来るって言ったから、待ってたのよ。」
 はて、何を?―――という顔をしたら、亜衣子サンが更に困り顔になる。
「何にしますか?」
「あ、えーと、じゃあ、ジントニック。」
 了解です、と言いながら、手際良く作っていく。細身のパンツに白いシャツで、腰に巻いたエプロンといい、怖ろしく様になっている。
「前もこればかり飲んでましたね?」
「あ、うん。ご飯の時は甘いの飲みたくないから。」
 大学の時に、先輩に勧められて色々飲んでみたけど、これが1番飲みやすくて美味しかった。
「その先輩って、男ですか?」
「ん? うん。」
 渡されたジントニックを一口飲んで、ふうっと息をつく。うん、旨い。駆けつけ一杯は美味しいね。
「その先輩と付き合ってたんですか?」
「ええ? まさか。」
 続けて飲みながら笑った。
 建築科があるのは工学部だ。理系だから当然周りは男ばかりで、いつもジーンズに作業服を着ていた自分は、全く女扱いされていなかったから、楽なものだった。一応、重いものとかは持たされなかったけど。
 更に一口飲みながらカウンターを見やると、2人が微妙な顔で視線を交わし合っている。はて?
「トーコちゃん、前回の事、覚えてる?」
「―――? もちろん…?」
 美味しい料理と美味しいお酒で、すっかり良い気分になってた…とは思う。だから、「ご機嫌ですね?」と“彼”に言われて、「うんっ」と…あれ、なんかホントに“ご機嫌”なカンジ?
 “彼”は終始ニコニコしてたから、気付かなかったけど、実は不快な思いをさせてたんだろうか?
 そう言えば、最終的にまた送ってくれるというから、「ダメだよ、そんな良いコじゃ、社会に出てつけ込まれちゃうよ?」と、説教じみた事を言って、でも心配だから送らせて下さいと頼まれて、「ホントに良いコだねぇ…」と、“彼”の頭をなでな…したっ、めっちゃヤバいカンジだった。
 オマケに「寝ないで下さいね」と言われて、うんガンバルとか言いながら、自分のほっぺたを、ぐにーと横に引っ張って―――

 ヤバい、マジでヤバいヤツだ―――!!!

 全てを思い出して顔面蒼白になった自分を、2人が苦笑しながら見ていた。

 そしてその時、亜衣子サンのお店以外では飲み過ぎないように、“彼”―――“カズ”に、約束させられたのだった。




「―――目が覚めた?」

 水底から引き上げられるように意識が浮上して、目を開けると、知らない天井が目に入る。横に顔を向けると、直ぐ隣にカズが座って、こっちを覗き込んでいた。
 考えるより先にがばりと起き上がって、手を振り上げる。

 ―――パンッ、と乾いた音が響いた。

「…ゴメン」
 反射的に謝ると、カズが笑った。
「謝るんだ?」
「…迷惑かけたのは確かだから。」
 でもあれは無い。まさかホントにやるとは思わなかった。しかも気絶するとか…思わず手で額を押さえた。今なら恥ずかしさで死ねるかも。
「トーコさん。」
「…何?」
「今の仕事、好き?」
 顔を上げると、カズが苦笑する。聞くまでもないか…と呟きながら。
「俺が昨日遅かったの知ってる、って事は、トーコさんも起きてたって事だよね?」
 睡眠不足にストレス―――そういった事も過呼吸の原因になるのだという事ぐらいわかってる。そして、それだけが原因じゃない事も。
「心配なんだよ。トーコさん、あまり言わない人だから。」
 言われて、苦笑する。
「カズがしなくてもいいのに。」
「なんで?」
「だって…」
 なんで、なんてこっちが聞くことだ。まさかそれで一緒に住もうなんて言ったわけじゃ無いよね?
 聞けずに俯いたままの頰に、カズの指先が触れる。驚いて顔を上げると、直ぐ近くにカズの顔があった。

 どくん、と心臓が音を立てる。

 覗き込む瞳は何処か寂しげで、心配そうな顔をしている。
 だから、こんなのはおかしい。
 さっきとは違う意味で、心臓がドクドクと音を立てている、なんて。
 早くなる呼吸を知られたくなくて、何か言おうと、唇を開いたその時。

 ―――ココンッ

 と、軽いノックの音が響いて、ガチャリとドアが開いた。

「あ、どうですか? 目が覚めちゃったです…」
 か?と、続けようとした言葉を飲み込んで、顔を覗かせた女性が目をぱちくりとさせた。
 次の瞬間、これだけ離れているのにも拘わらず、ハッキリわかるほど真っ赤になって、
「おっ、お邪魔しましたっっっ!!!」
 という叫び声と共に、ドアが再び閉められた。
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