浮気の定理-Answer-
「今日は少しペースが速いようですが、大丈夫ですか?」


普段は存在自体、あまり感じさせないように気をつけている。


客と店員というだけの関係なのだから、余計なことはしないよう心がけていた。


けれど、やはり気になる客というのはいるもので、彼はそういうタイプの客だった。


声をかけられた相手が自分だと気づくのに少しだけ時間がかかったのか、一拍置いてハッとした顔をした彼は、ゆっくりと目線をこちらに向ける。


それからここが自分の部屋ではなかったとでもいうように、気まずそうな笑顔を見せた。


「すみません……大丈夫です……」


グラスを握りしめながら、また視線を落とす彼に再び声をかけてみる。


「お水、お持ちしましょうか?」


踏み入ったことは聞けない。


相手が勝手に話すことを黙って聞き流すことは出来ても、立場上こちらからあまり踏み込んではいけないと思っていた。


「そうですね……その方がいいかもしれません」


そう言うと何度か自分を納得させるように一人で頷きながら、もう一度こちらに顔を向ける。


氷を浮かべた水を彼の前に差し出すと、力ない笑顔で礼を言いながらそれを受け取った。
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