幽霊と私の年の差恋愛



「で、どこまで追いかけるんですか?」


カフェを出てから程なくして真糸に追いついた美波は、女性から適度に距離を取りつつ尾行を続けていた。


「もう止めません? ストーカーですよ、こんなの」


時々こうして話しかけないと、真糸はすぐに女性の方へと行ってしまう。それが何となく嫌で、美波は彼の気を引こうと躍起になった。

一度橙が差し込み始めた空は、その後急速に橙の範囲を広げていき、それに比例して暗さも増していった。


(私……なんでこんなにもやもやした気持ちになるんだろう?)


冷静に考えてみると、このような気持ちを抱く理由は明確に思えた。しかしそれは、美波の中でなかったことにされる。

美波は頭を振ってその答えを追いやるも、心を覆うその霧のような思いは晴れなかった。


「……真糸さんの嘘つき。彼女はいないって言ってたくせに」


終いには、美波は拗ねたような口調でそう呟いていた。少し前を歩く女性は、白いパンツにシャツをインしたキャリアウーマン風だった。

ヒールも、美波が履いたことのないほど細くて高い。

フレアスカートにローヒールのパンプスを履いている美波は、自分がひどく子どもっぽく思えて居心地が悪くなった。


(この格好、可愛いって褒められて嬉しかったのにな……)


美波は人知れずスカートの裾を、ぎゅっとシワがよるほど掴んでいた。


「……今は彼女じゃないさ」


ふと、言葉少なだった真糸が静かに告げた。美波は俯いていた顔を上げる。


「今は……?」


女性を見つめる真糸の口元には笑みが貼り付けてあったが、眼鏡の奥の瞳は切なげに細められていた。

その表情は、言葉以上に真糸の中にある想いを訴えていた。


「そんなに大切なら……なんで……?」


口に出してから、愚問だと思った。

良好な関係は、両者の意志がなければ成り立たない。美波自身が良い例であろう。

真糸は困ったように乾いた笑い声を上げた。


「うーん、なかなか酷なこと聞くなぁ、美波ちゃんは。お察しの通り、僕が振られちゃったんだよねぇ。『研究ばかりに没頭して、私を見てくれない』ってさ」


二人は女性を追って、駅ビルへと入った。休日ということもあり、それなりに人も多い。その人混みを利用し、気付かれないようにあとを付ける。

女性は本屋に立ち寄ると、学術書の棚の前で立ち止まり、やがて一冊の本を手に取った。

その本を真剣に読み込む。

棚の上には、『生物学』と書かれている。そこには中高生向けの参考書などではなく、その世界の第一人者が執筆したような、まさしく専門書と呼ばれる類のものが陳列されていた。


「彼女もね、それはそれは優秀な生物学者なんだ。僕の助手を務めてくれていてね」


真糸は、懐かしむように女性の後ろ姿を見つめた。彼女の栗色の髪が、緩いウェーブを描いて背中に流れている。


「彼女、確かに仕事はできる方なんだけどね。実はああ見えて相当天然なんだ」


時々髪を掻き上げる仕草が色っぽかった。


「はは、もう吹っ切れているつもりなんだけどねぇ。いやもしかしたら、彼女が僕の心残りなんじゃないかと思えてきてさ。彼女が幸せなら、成仏できたりして?」


真糸ははにかんだように笑いながら、尾行の理由を説く。

美波の胸を、また形容しがたい感情が埋め尽くした。


「まぁ、一時は婚約までした仲だからねぇ。彼女からとはいえ、破棄になっちゃったけど」


(婚……約……)


真糸のさらりとした物言いには、まるで気にしている素振りなど感じない。しかし婚約というワードが、まるで魔法の呪文のように美波の心を抉っていった。




「ちょっと、困ります!」




心底困惑したような女性の声音に、美波の意識は急速に浮上した。

女性に目を向けると、背の低い小太りの男が女性の腰に手を回しているところだった。明らかに絡まれているが、周囲は見て見ぬ振りを決め込んでおり誰も助けようとはしていない。

それどころか、関わりたくないと言わんばかりに場所を空けていた。


「どうしよう。あれ、やばいんじゃ……ま、真糸さん?」


どうしたものかと美波は真糸に目を向け、ぎょっとした。真糸が今にもなぐりかからんとばかりに拳を固めていたからだ。

その表情は、焦りと、怒りと、もどかしさ。それらの感情が渦巻いているのが手に取るように分かる。


(真糸さん、キレてる……!?)


見たことのないような形相の真糸は、それだけであの男を殺せそうだ。真糸はつかつかと男に近付き、拳を振り上げる。


「ってちょっと待っ……!」


美波が制止を試みたのと、真糸が拳を振り下ろしたのは同時だった。

バキッという鈍い音がして、小太りの男は吹き飛んだ。

女性は驚いたように辺りをキョロキョロと見回している。どうやら真糸の姿は見えていないようだ。


「はぁーあ。一発殴れただけかぁ。全然足りないんだけど」


男は不意打ちで顔面を殴られて、完全に伸びている。さらに蹴りを入れようと試みている真糸を尻目に、美波は慌てて女性の腕を引っ張った。


「今のうちに、こっちへ!」


「えっ? えっと、あなたは?」


「良いから!」


その問いには答えず、戸惑いの表情を浮かべる女性を無理矢理引っ張って本屋から連れ出す。

勢いで駅ビルから飛び出したものの、これからどうしようかと美波の頭が冷静になり始めた頃、女性が再び口を開いた。


「あの……助けていただいて、ありがとうございました」


女性の声音は、ピシッと決めているビジュアルから想像するよりも、ずっと繊細で甘く、可愛らしかった。

戸惑ったような控えめな笑顔も、美人には違いないがどことなく可愛らしさを感じる。


「いえ! すみません、突然引っ張ってきちゃって……あ、私は安西美波と言います。別に怪しい者ではなくてですね……」


しどろもどろに不審な自己紹介をする美波だったが、女性は少しだけ警戒を解いたようたった。

彼女は、真野栞と名乗った。

二人が自己紹介を終えたところで、ようやく真糸がやってきた。未だに不満は解消されていないであろうことが、その表情から明白だった。


「あの男の人、知り合いですか?」


先程の男について尋ねると、女性は思い出したように顔を歪めて小さく頷く。


「はい……実はお店のお客さんで……。ちょっとしつこくて」


肩を竦めて自身を抱きしめる女性に、美波は首を傾げる。それは真糸も同様だった。


「お店って……?」


大学で働いているのでは? と口をつきそうになり、慌てて言葉を切る。

頭に疑問符を浮かべる美波に苦笑しながら、栞はプラスチック製の洒落た名刺を差し出した。


「これって……」


名刺の縁には、黒と金の蝶が印刷されている。中央には店名と源氏名。連絡先。

所謂、夜の店の名刺だった。


「ごめんなさい。女性の美波ちゃんには必要ないわよね。最近勤め始めたばかりで、まだ指名のお客さんが少なくて」


男性の知り合いがいたら紹介してね、と冗談ぽく笑う栞に、美波は思わず貼り付けた笑顔が引きつった。


(ど、どうしよう……真糸さんの顔が見れないんですけど……!)


初対面の美波にこんな名刺を渡してくる辺り、真糸の言う通り確かに天然には違いないのだろう。そして厄介なことに、栞は無意識に爆弾を投下するタイプの天然だ。

今、一言も言葉を発さない真糸が何を思っているのか想像し、けれどそれを確認する勇気が美波にはなかった。


「あ、そうだわ。これから彼のお店で飲むことになってるの。良かったら美波ちゃんも一緒にどうかしら?」


お礼に奢らせて、と華奢な手を胸の前で合わせる栞に、美波は「まさか」と思いながらも笑みをひきつらせた。

そんな美波の様子には気付かず、栞は既に店の方へと歩き出している。彼女の少し後ろを着いていく美波は、周りに気づかれないよう小さな声で真糸に囁く。


「それで、あのー。真糸さん? 栞さんはその……春臣さんとは……?」


皆まで言えない美波に代わり、真糸は半ばやけくそになって天を仰いだ。


「ああ……彼女とはしょっちゅうハルのバーで飲んでたからねぇ。そりゃあ知り合いさ……ははは……夜の店かぁ……」


どこからショックを受ければ良いのか分からない真糸の空笑いが、虚しくネオンの街に消えて行った。









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