love*colors

「……いえ、具体的には何も。ただ、過去にあったことに今でも心を痛めていて……“忘れちゃいけない事だ”って。巽さん自身が話したくない事、赤松さんに聞くのはどうかと思うんですけど……、私、どうしても知りたくて」

 そう一気に言ってからハッとして慌てて両手を胸の前で振った。

「あのっ! 決して興味本位とか、そういう軽い気持ちじゃなくてっ……!」

 思い切り否定したのは、本当に軽い気持ちで巽の過去を知りたいと言っているのではない事を赤松にも分かってもらいたかったから。それが伝わったのかどうかは分からないが、赤松が静かに言葉を続けた。

「黒川には、婚約者がいたんだよ」

 それを聞いた瞬間、胸がズキンと痛む──。

「亜紀は、職場の同僚で──、よくある職場の飲み会の席で知りあって俺ら意気投合して。黒川と亜紀は特に気が合う感じだったから、距離が縮まるのも早くてね。けどお互い不器用だったからいろいろあって──。何年か付き合った後ようやく結婚って話になって、俺もようやく安心できると思ったらまさかあんなことになるなんて……」

 ひときわ声を落とした赤松が何かを思い出したかのように一瞬言葉を詰まらせた。

「三年前の夏だったよ。──亜紀が、事故で亡くなったのは」

 赤松の言葉に、日南子は驚いて目を見開いた。

「ちょうど、盆休みの頃で──、亜紀の両親に結婚の挨拶に向かう矢先のことだった。本当は二人揃って挨拶に向かう予定だったらしいんだが、彼女のほうがたまたま地元の三宮で同窓会があって。当時、抱えてた仕事が押してた巽より二日ほど早めに夏休みに入り実家に帰ってたんだ。彼女、学生時代によく高速バス使って実家との間を行き来してて──、あの時も」

 日南子にも朧気ではあるが記憶が残っている。たしか三年ほど前の夏、静岡発の高速バスが京都の辺りで死傷者を出す事故があった事を。ちょうどお盆休み中に起きた大事故ということで、全国ニュースでも大きく扱われていた。
 
 なにげなく流し見していた当時のニュース。
 あのとき、巽は最愛の女性を失っていたのだ──。

「……」

 どれほどの悲しみだったのだろう。愛する人を失ってしまうということは。
 心から愛した人に、二度と会うことができないという絶望感は。

 いま、恋をしているからこそ分かる。
 もし、突然巽が目の前からいなくなってしまったら。どんなに焦がれても二度と会えないのだとしたら。
 それほどの悲しみ、自分なら耐えられるかどうか分からない。

「青ちゃん……」

 そう声を掛けられて、日南子は自分が泣いていることに気づいた。頬を伝う温かな涙が顎に溜まり、それが雫となってスカートに染みを作る。

「……あ、やだ。すみません……」

 慌ててバックの中からハンカチを取り出してその涙を拭った。その様子を赤松がただ静かに見つめている。

「……ごめんなさい。私、この話聞いてしまってよかったんでしょうか?」

 自分から知りたいと言っておきながら、今更と思われるかもしれないが、やはり巽にとっては迂闊に他人に知られたくはない内容だったに違いない。
 窓の外を流れる夜の景色。時折、無機質な無線の声が車内に響く。

「俺はね。あいつにはまだ諦めて欲しくないんだよね」
「……」
「確かに、亜紀の事は辛かったと思うんだ。それをあいつが引きずってしまう気持ちも分からなくない。──けど、それに縛られてこの先誰も好きにならないとか、そういうのは違うと思う。人間は、生きてく限り同じとこに立ち止まってはいられない。深い悲しみさえ、何かに変えて生きていかなきゃなんないんだと思う」

 普段、店での巽と赤松のやり取りを見ている限りでは、伺い知ることのできない彼の図り知れない巽への友情を感じる。きっと彼も巽の幸せを願っているのだ。

「──怖いんだと」
「え?」
「あいつ、あんま弱音とか吐くタイプじゃないんだけど。一度だけ酒に酔って言ってたことがある。また誰かを好きになって──、また失ってしまったらと思うと怖いって」

 だからなのか。初めて巽の気持ちが分かった気がした。
 相手が自分だからとかそうでないとかは関係なく、もしまた誰かを愛して、その人を再び失ってしまうかもしれないという恐怖が、未だ巽を苦しめているのだ。

 一度根付いた恐怖感は、そう簡単に拭いきれるものではない。

「青ちゃんは、黒川が好きなの?」

 ふいに赤松に訊かれて、日南子は驚いて手にしたハンカチを落とした。

「ははっ。わかりやす」
「……な、なんでっ?!」
「そりゃ分るよ。あんな黒川に懐いてるし、今だってあいつの事知りたいって、揚句泣くし──。どうでもいい男の過去なんて普通知りたいとは思わないだろ?」

 そう言われて、日南子は慌てて膝の上に落ちたハンカチを拾い上げ、顔を覆う。
 そんなに分かりやすいのだろうか。気持ちを自覚してからというもの、自分が自分でもよく分からない。ただ、どんなにこの気持ちに蓋をしようとしても、それを表に出ないよう制御するのはとても難しい。

「黒川の心、溶かしてやってよ」
「……え?」
「頑固なんだよ、あいつ。──辛い思いしたからこそ尚更、次こそは……って幸せに貪欲になったっていいのにな」

 きっと彼は巽の苦しみの一番の理解者なのだろう。赤松にとってもその亜紀さんと言う女性は大切な友人だったに違いない。だからこそ、彼女の死の悲しみを乗り越え、前を向いて歩いて欲しいと考えるのは友人として当然のことだ。

「──私、もう振られてるんです」
「は?」
「告白したら、いまのままでいたい──って」

 赤松が額に手を当てて小さく息を吐いた。

「それ。本心じゃないと思うよ」
「……」
「言ったろ? ただ怖がってんの」
「私、まだ全然諦められないんです。巽さんに何があったのか知りたかったのも、それを知ったら何か打開策が見つかるんじゃないかって……」
「──で? 見つかりそう?」

 赤松の問いに、日南子は自信なく首を振った。

「……ただ、もっと傍にいたいって気持ちだけは強くなりました」

 巽が過去に苦しめられているのなら、その手をそばにいて握ってあげたい。
 誰かを愛する勇気がでないなら、その勇気が持てるまでその手を引いてあげたい。
 大切な人を失う恐怖が消えないのなら、私が傍にいるよ。絶対にあなたの前から消えたりしないよって伝え続けたい。

「私、ダメなんです。巽さんじゃなきゃ……」

 彼の代わりになる人なんていない。
 その笑顔も、お料理も、掛けてくれる言葉も、触れる手も。
 欲しいと思うのは彼ただ一人。

 ふと気付くとタクシーは“くろかわ”を少し過ぎたところに停車し、チカチカとハザードランプを点滅させていた。

「青ちゃん、この辺だったよな? ここから一人で大丈夫?」
「はい。そこの道入ってすぐですから。……送ってくれてありがとうございます。これお代……」

 そう言って日南子が財布からお金を取り出すと、赤松が呆れたように笑った。

「こらこら。若い女の子が! そういうのは黙って奢られとけよ」
「や、でも……」
「こっちが無理矢理誘ったんだし、な?」

 そう言われて、日南子はその手を引っ込め礼を言った。

「それじゃ、気をつけてな。おやすみ」
「はい。おやすみなさい」

 タクシーを降りて、そのテールランプが見えなくなるまで見送ってから歩き出した。

 巽の過去を知ったいま、ますます強くなる想い。
 すぐにどうこうなんて言わない。好きになってなんて言わない。
 だけど、私は決してあなたの傍からいなくなったりしない。そう、伝え続けちゃダメですか──?

 なにげなく見上げた北の夜空に、カシオペア座を見つけた秋本番。

 


 

< 37 / 59 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop