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【6】黒川 巽の場合③

 定休日の朝は普段より少し遅く目覚める。若い頃は休みの日には昼過ぎくらいまで寝ていられたものだが、ここ数年店の営業に合わせた早起きをするようになってからというもの、身体がそれに慣れたのか休みの日でも早い時間に目が覚める。
 ベッドから抜け出して階下に降りると、巽は思いの外《ほか》冷えた空気に身震いをした。

「……朝は冷えんな、もう」

 秋祭りを過ぎた頃から急激に秋の気配が強くなり、十一月に入った今、朝晩の気温にほんのりと冬の気配を感じるほどだ。

「……」

 その秋祭りの夜だ。青野日南子に告白されたのは。

 正直に言えば、日南子の気持ちが嬉しくなかったわけじゃない。
 この数年の付き合いの中、彼女がどんな女の子なのか分かっているつもりだったし、それが恋愛感情ではないにしても、ある程度の好意は持っていた。
 そんな相手からの真っ直ぐな告白。男として嬉しくない訳はない。

 ただ、彼女の想いを受け入れることは躊躇《ためら》われた。それは自分の弱さのせい。
 本気になって──、俺は再び大事な人を失うことを恐れている。

 自分の弱さのせいで彼女を傷つけていることも分かっている。
 気持ちを受け入れられもしないくせに、彼女を突き放す事もできなければ、今まで通りでいたいなどと、随分手前勝手なことを言って彼女を苦しめている。

「……どう言ってやればよかった?」

 相変わらず店に顔を出してくれる日南子は、表面上これまでと変わらないように見える。けれど、その笑顔の下にどんな複雑な気持ちを抱えているのかと思うと、やはり胸が痛む。
 
「何、やってんだろな」

 そう呟いて息を吐いた。

 たわいのない話にも弾けるように笑う日南子の笑顔。自分の料理を美味しそうに食べてくれる幸せそうな笑顔。
 好ましいと思っていた彼女の笑顔を曇らせているのが自分自身であるという事実にどうしようもないやるせなさが募る。

 卑怯だ、俺は。

 あんな真っ直ぐな彼女の気持ちを傷つけて。
 なのに、彼女がこれまでと変わらずこの店に顔を出してくれることを望んでいる──。

   *

「らっしゃーせぇー! 何名様ですか?」
「三人」
「こちらテーブル席どうぞー」

 店内に威勢のいい富永の声が響く。金曜の夜は仕事帰りの比較的若い年齢層の客が多い。
 慌ただしく店をまわしている最中《さなか》いつもの見知った顔が覗き、ヤツが富永と一言二言会話を交わしたあと、カウンター席に座る。
 既にテーブル席は満席。あとはカウンター席二席を残すのみ。

「珍しく忙しそうだな」

 店内を見渡しながら赤松が言った。

「珍しくは余計だっての。おまえこそ珍しいな、こんな早い時間に」
「たまには飯食いてーと思って。ビールと、野菜炒め定食」
「はいよ」

 赤松は、月に一度か半月に一度程度の頻度で店に顔を出すが、そのほとんどはラストオーダーを過ぎた遅い時間にやってきて軽く飲んで帰るのが常。食事を目的にやって来るのはそれこそ数カ月に一度だ。
 
「店長。二番、生三つの~焼き魚一つ、天ぷら二つお願いしゃっす!」

 オーダーを取って戻ってきた富永が、カウンターに入りグラスを取り出して手際良くビールのサーバーを捻る。

「赤松さんも生でいいすか?」
「おー。サンキュ。俺の後でいいぜ? 忙しそうだし」
「や。ついでっすから」

 バイト歴の長い富永にとっても赤松はよく知った仲だ。その辺りはいちいち言わずとも心得ている。赤松の分のビールをカウンターに出すと、他のテーブルのドリンクを持ってテーブル席に向かうのを見届けてからオーダー分の料理を用意するため厨房に入った。
 従業員二人でもまわり切るような小さな店。この手狭さを少し物足りなく思うこともあるが、カウンターの中から全ての席に目の届くこの狭さだからこその客との距離感を気に入ってもいる。
 親父たちが大事にしてきたもの。それを巽自身も守っていきたいと思っている。


 夜の営業開始から何度か回転を繰り返し、店内の客の全ての料理を出し終えようやく一息ついたのは午後八時。
 カラカラ……と格子戸を開け「こんばんはー」と少し遠慮がちに店に入って来たのは日南子だった。富永が入り口で彼女を出迎え、カウンター席から赤松が彼女に手招きをする。
 彼女がそれに気づいて、少しほっとしたような顔で、赤松の隣の席に腰掛けた。
 店にはこれまでと同じように顔を出してくれるが、最近の彼女は巽の前で少し居心地が悪そうに見える。
 そうさせている原因が自分であると分かっているだけに、二人きりでカウンター越しに向かい合うのはなんだかいたたまれない。それはたぶん彼女も同じなのだろう。

 
「こんばんは。赤松さん、この間はありがとうございました」

 巽が日南子にいつものように「おかえり」と声を掛けるより先に、彼女が赤松に声を掛けた。“この間”という響きに、何事かと二人の様子を見比べる。

「いや。全然」

 そう答えた赤松に、この店以外の場所で二人に何らかの接点があったのかとまるで探りを入れるように訊ねる。

「──この間、って?」
「あー。えと。この間仕事帰り駅で偶然赤松さんと会って。タクシーで近くまで送って貰ったことがあって……」
「ちょうど神戸行ってた帰り。あ、そうだ、土産あんだった。忘れてたわ」

 赤松が思い出したように、ビジネスバックの中から包装紙に包まれた土産らしきものを取り出し、巽にそれをヒョイと手渡した。
 巽は「ああ…サンキュ」と言ってそれを受け取る。

「赤松さん、あれから随分経ってません?」
「大丈夫だよ。腐るもんじゃねぇし。日持ちは考えて土産選んでっから」
「あ、そうなんですね」
「それ基本だろー?」
「ふふ。確かにそうですよね」

 なぜだか急に仲睦まじく見える二人の姿に胸がざわつくのは、そんな資格もないくせに彼女の好意だけは感じていたいというなんとも身勝手な己の心情。

「青ちゃん。何食う?」
「あ。とりあえずビールと……何にしようかな」

 そう言ってメニューを見ながら考える仕草をする日南子に赤松が「俺、野菜炒め食った」と満足げに言う。

「あ。それもいいですねー! 私も同じのにしようかな」
 
 日南子がメニューを閉じて、それを巽に差し出した。こうしていれば今まで通り。彼女は特に以前と態度を変えることなく巽に接し、あの夜の事はまるで夢か何かのように思えたりもする。
 こうなることを望んでいたはずなのに、少しずつ縮まっていたように思っていた彼女との距離が開いた気がするのが歯痒い。
 目に見えない線引き。自分から遠ざけておいて、今更何を──。

「黒川。俺ももう一杯」
「おう」

 赤松が掲げたグラスを受け取り、新しいグラスにビールを注ぐ。

「飯、ちょい待っててな」

 日南子にそう言って厨房に入った。
 店の方から赤松と日南子の楽しそうな話し声が聞こえてくるのに、胸がザワザワとするのは彼女に対して言った言葉とは全く逆のちぐはくな感情。


   *


「ごちそうさまでした。今日もおいしかったです」

 日南子が両手を合わせて満足げな顔をした。この顔を見ているだけでこちらまで幸せな気持ちになる。彼女にここに通って欲しいと思うのもこの顔が見たいと思う欲。

「コーヒーでいい?」
「あ。巽さん、今日はいいです」

 食後のドリンクを訊ねると、日南子がそれをやんわりと断るように遠慮がちに胸の前で手を振った。

「何、どうかした?」
「どう、ってほどでもないんですけど。明日出張で朝早いんです。準備もあるんで早めに帰らないと」

 日南子が腕時計を見ながら残念そうに言った。時刻はすでに九時近い。

「青ちゃんも出張とかあんだ?」
「うちのお店、文房具だけじゃなくて雑貨なんかも扱ってるんで、その買付の展示会に行くんです。基本的には店長が行くことが多いんですけど、勉強の為に他の人間が行くこともあって。今回私の番なんです」
「へぇー」
「巽さん。ここお代。ちょうどあります」

 日南子が財布から取り出した代金をカウンターの上に置き、慌ただしく席を立った。
 普段なら巽が彼女を送っていくのだが、まだ営業時間内。今夜は金曜と言うこともあり、深夜までのバー営業もあり、いつオーダーが入るか分からない手前店を離れることができない。
 以前、あんなことがあった手前、うちに寄った帰りくらいは自宅まで送ってやりたい。
 どうしたものかと考えていると、ふと赤松と目があった。

「あ。俺送るか? おまえ、ここ離れらんねーもんな? すぐ戻るわー」

 そう言うと赤松が立ち上がって日南子を呼び止めた。店の入り口付近で赤松が日南子に声を掛け、どうやら赤松の申し出に遠慮しているらしい彼女が胸の前で「いいですいいです」といった感じで手を振る。
 ──が、その言い合いを制したのはたぶん赤松。やつがこちらを見て親指を立てたついでにウィンクをした。

「いらんわ」

 ボソと呟くと、赤松がニヤ、と笑いまるで日南子をエスコートするかのように彼女の腰に触れる後ろ姿が見えた。

「──っ、何してんだ」

 なぜだか赤松の行動に無性に腹が立つ。彼女を送ってくれるのはありがたいが、どさくさにまぎれてその身体に触れるとか。昔から誰に対しても気安いところがある男ではあるが、随分と慣れ慣れしい。


 日南子を送ると言って店を出て行った赤松が、二十分ほど経っても戻ってこない。彼女のマンションまでは店を出て大通りを少し歩き、細道に入ってすぐ。普通に考えて五分、のんびり歩いたとしても十分もあれば戻って来れる計算だ。
 ヤツを信用していないわけではないが、赤松もすでに何杯か飲んだ後。何かよからぬ事があったのでは──と、心配になってくる。

 そうこうしているうちに「たっだいまー」と能天気な声を発し赤松が店に戻ってきた。しかもなぜかご機嫌な様子でニヤニヤとしているところがいつになく気持ち悪い。

「……遅かったな」
「いやー。なんか帰り際に話し込んじゃってな」
「アホか。彼女、明日仕事早いっつってたろ。どーせおまえが無駄に話引き伸ばしてたんだろうが」

 食後のドリンクも普段から楽しみにしている彼女が、それを断わって明日の為に早く帰ったというのに、全くもってその意味がナイ。

「はぁー?! 何で俺のせいなんだよ。話し込むっつったってたかが数分だろ? 何ムキなってんだか」
「べつに。ムキになんか……」

 そう言いかけて、言葉に詰まった。確かに巽がそれをどうこう言う筋合いなどないからだ。黙って新しいビールを赤松の目の前に出すと、赤松がカウンターに片肘を付いて巽を見上げたまま、ゆっくりとグラスに手を伸ばす。

「アレレー? 妬いてんの?」
「──はあ?! 何言って……」
「そうじゃないならいいじゃねぇかよ。言っとくけど、俺いま、一人身だし」

 赤松が意味ありげにニヤと巽に笑いかけた。その笑顔に巽の額に嫌な汗が滲む。こいつのこの顔を俺はよく知っている。何かいい事を思いついた時の顔。
 しかも赤松はかなりの行動派だ。こうと思い立ったらすぐにでもそれを行動に移すタイプなのを長い付き合いの中熟知している。

「青ちゃん、可愛いよなー。俺、もし次結婚すんならああいう子がいいわ」
「──は、」
「いや。マジな話。歳ちょっと離れてっけど……彼女フリーだろ? いっちょ攻めてみるっつー手もあるよな?」

 そう言ってグラスに手を伸ばした赤松から、巽は思わずグラスを取り上げていた。

 

 

 
 

 
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