love*colors

「別に。特別な事はなかったのよ。他にお見合いした人にもいい人はいたしね」

 ぐつぐつと出汁の煮える香りが部屋に漂う。

「お父さんがね。言ったのよ。あなたと毎日ご飯が食べたいなーってボソッと」
「あ?」
「今のお父さんからは想像もできないけど、当時のお父さん、すっごく無口で。女の人にも全然慣れてなくて、デートなんかそりゃーもう肩凝っちゃって! ……でもね。お父さんと食べるご飯がすごく美味しかったの。どこでどんなもの食べても『旨い旨い』って。もちろんお父さんがつくってくれるご飯も美味しくて。食事って毎日のことでしょう? それこそ、朝昼晩。──誰と食べるかってすごく大事じゃない? それで思ったのよね。私もお父さんと毎日ご飯が食べたいなーって」

 気障なセリフに心動かされたわけでもなく、飯かよ、と突っ込みそうになったが、実際食事というものは誰と食べるかでその印象を大きく変える。

「──それが、決め手ってことかよ?」
「そうよ? だって、結婚って夢物語じゃないもの。生活よ、生活! この人と生活してくんだーってのがイメージできなきゃ」

 ふく子の言葉にふと思い出す笑顔があった。こういう仕事をするようになって今までに数々の笑顔を見て来たが、巽にとってあの笑顔はやはり特別だ。
 両手をきっちりと合わせ必ず丁寧に「いただきます」と言って幸せそうに自分の作った料理を食べてくれる彼女の笑顔。毎日でも見ていたいと思うのは、ある意味そういう事なのか。

「なるほどね」
「人生の先輩の意見は参考になったかしら?」

 ふく子が茶化すように訊ねるのを少し居心地悪く感じながらも、苦笑いを返す。

「まぁな……」
「そりゃ、よかったわ。そういうのってね、もちろん人それぞれだと思うけど……大事なものはちゃんと掴まえとかなきゃダメ。あんた、あんな思いしたんだもの。今度こそ、幸せになっていいのよ」

 ふく子の言葉をかき消すように、玄関でガタン、バタン、と物音がして「ただいまー。帰ったぞぉー」と父親の間延びした声が響いた。

「親父帰ってきた。相変わらず騒がしいなぁ」
「ほーんと!」

 クス、と笑ったふく子が「おかえりなさい」と玄関まで親父を出迎える。

「腹減った。飯、飯」
「もう出来てるわよ。巽もいるから手ぇ洗ってらっしゃいな」

 そうして久しぶりに家族三人で賑やかに食卓を囲む。
 幸せそうだった。お袋も親父も。小さい頃から好きだった、こうして三人で囲む食卓が。
 
「おう。巽、これ食え。これも──あと、これもっ!」
「うっとーしいな! 自分で食えるわ」
「ふふふ」

 一緒に飯を食いたい──、か。ここでふと浮かぶのもやはり日南子の笑顔。
 誰かを想うということは……案外そういう素朴な事なのか。
 
 彼女の気持ちを受け入れるのを戸惑ったのは自分の弱さ。でもその弱さをまるごと受け止めてくれると言った彼女となら俺はまた──。


 *  *  *


「うぃーっす」

 ゆるい声を発し、店に顔を見せたのは最近やけに頻繁にここに出入りしている赤松。薄手のコートを脱ぎ、いかにも仕事帰りだという感じのスーツ姿。ネクタイを緩めながらお決まりの席に座る。

「あっれ、今日も青ちゃんいねぇのか」
「……アホか。べつに毎日来てるわけじゃねぇんだよ」

 そう。日南子が店に顔を出すのは週一、もしくは週二。顔を出す頻度の高い曜日は把握しているが、それを赤松に教える義理はない。
 あれから何度か赤松と日南子は顔を合わせているが、会うたびその距離が縮まっているように見える。それが思いのほか面白くないと感じる自分自身の気持ちの変化に戸惑っている。

「ビールとぉー。今日は焼き魚ってぇ気分」
「ナイスチョイスだな。いいヒゲ鱈あんだよ」

 そう答えて赤松にビールを出す。

「ホント、最近よく来るよな。おまえ」
「来ちゃ悪りぃかよ。日頃の不摂生のバランス取りに来てんだよ」
「あっそ」

 実際、本当の目的はどうだか分かったものじゃないが。

「そーいや、灰原くんとは?」
「ああ。この間飯奢ってやった」
「……なんで上からなんだよ。元はと言えばおまえの酒癖が──、」
「はいはい。わーってるよ。ガッツリ礼はしたっつうの。あいつ、ああ見えてスゲー食うんだぜ? 全く遠慮ねぇし、口はキツイし」
「へぇ、意外」

 確かに思ってることは正直に口に出すタイプのように見えるが、よく気がつくし、どこからどう見ても好青年だ。そこは赤松の人柄と言うのもあるだろう。昔から人との距離を詰めるのが上手く、後輩たちにも慕われ、懐かれていた。
 こんな男が恋愛ごとに本気を出し、ライバルにでもなればそれこそ脅威だ。

   *

 午後九時半を過ぎ、店の暖簾を降ろしに表に出ると、ちょうど駅方面からのバスが目の前のバス停に到着したところだった。カツン、と低いヒールの音がして顔を上げるとバスから降りたばかりの日南子と目が合った。

「「あ」」

 二人同時に声を漏らして、お互いの顔を見合わせてふっと微笑んだ。
 あの日、思わず抱きしめたことを彼女はどう思っているのだろう。言い訳はしなかった。はずみとかそういう事ではなく、自分がしたくてした事だ。ただ、もう少しだけ時間をくれ──と、俺はあの日彼女に告げた。

「おかえり。今帰り?」
「はい。セールの準備で少し遅くなって」
「寄んねーの?」
 
 クイクイと親指で店の方を指さすと、日南子が遠慮がちに巽を見た。

「でも……もうラストオーダー過ぎてますよ?」
「まー堅いこと言うなって。飯まだだろ? 今日はお客様はお休みっつーことで」
「え?」
「遠慮すんな。どーせ赤松もいるから」

 そう言って少し強引に日南子の腕を取った。日南子狙いで店に通い詰めている赤松に彼女を会わせたくはないが、どうせ店にはもう赤松しか残っていない。他に客がいるときとは違って目が届く範囲で二人が話をするくらいは、許容範囲だ。

 暖簾を片付け店に日南子を招き入れると、赤松が彼女を見て嬉しそうな顔をした。

「おー、青ちゃん!」
「こんばんは」
「遅かったじゃん。残業か何か?」
「はい。明日からセールで、その準備で少し遅くなって」
「お疲れってわけか。まー、飲も飲も!」

 赤松が自分の隣の席を手でポンポンと叩き、そこへ座るよう促したが、彼女はそこへ荷物を置いてその隣のいつもの席に腰掛けた。

「何だよー、隣座ってくんねぇの?」
「だって。赤松さんすでに結構飲んでそうなんですもん」
「あ。酷でぇ。青ちゃんには絡まねぇのにー」
「ふふ。嘘です。ここが一番落ちつくんで」

 不思議だと思う。さっきまでオッサン二人だけのむさくるしい店内が、日南子一人が加わっただけでその雰囲気を変える。彼女の纏う空気は、いつもどんなときも、とても柔らかく感じる。


「簡単な賄い飯だけど、いいか? 無理矢理誘った手前、お代はナシで」

 巽が言うと、日南子が慌てて胸の前で両手を振る。

「え? いいですよぅ。……ちゃんと食べた分お支払します」
「だから。言ったろ? 今日はお客さまお休みだって」

 巽の言葉に、赤松が日南子を見て言った。

「黙って奢られとけば? 若い女の子がこんなオッサンに遠慮することねぇよ」
「……」

 しばらく考え込んでいた日南子が「じゃあ」といって頷いた。改めてイマドキの若い女の子には珍しい律儀なタイプだ。そういうところもまた彼女らしく好ましい。
 そんなふうに素直に考えられるようになったのも、徐々に変化しつつある心境のせいか。

 さっき赤松に食べさせたヒゲ鱈の西京焼をメインに夜の営業の残りの白飯と味噌汁。漬物などを用意して日南子の前に並べる。さらに、同じものをその隣の席にも並べる。

「え。俺もう食えねぇけど」

 赤松がそれらを見て言った。

「は? 違げぇわ。俺の飯」

 そう言うと巽は赤松と日南子の間の席に割って入るように移動し、そのまま割り箸を口に咥えながら日南子の荷物をテーブル席の空いてる椅子の上に動かした。
 それからグラスに注いだビールと、急須に入ったお茶を用意して席に着く。

 パン、と両手を合わせると隣の日南子も同じように手を合わせた。ほぼ同時に「いただきます」と呟いて箸を割って食事に手をつける様子を赤松が呆気にとられたように眺めていた。

「んー! 美味しいっ!」

 焼き魚を口に入れ目を丸くした日南子を横目で眺めながら、巽は小さく笑う。

「旨いか?」
「そりゃあ、もう!!」
 
 日南子が目をキラキラさせながら頷く。
 こういうことか、と思う。ふく子が言っていた、何を食べるかよりも誰と食べるかという食事の意味を。

「……ほんと、食わせ甲斐あんな」
「巽さんのご飯、やっぱり凄く好きです」

 漠然と感じた。
 もし、この先自分が誰かと毎日食卓を囲むようなことがあるとすれば。その相手はできることならば今隣で幸せそうな笑顔を浮かべる彼女だったら──と。

   *

「さーて。そろそろ帰っかな。明日も朝早ぇえし」

 閉店時間を過ぎた午後十時過ぎ、赤松がカウンターの上に代金を置いて立ち上がる。それにつられるように時計を確認した日南子も慌てて荷物を持って立ち上がった。

「赤松帰るからってそんな慌てて帰ることねぇぞ?」
「でも。もう時間過ぎてますし!」
「じゃあ、青ちゃん。そこまで一緒する?」
「はい。通りまで」
 
 連れ立って店を出て行く二人を追いかけると、ちょうど出入り口付近でよろけた赤松が咄嗟に日南子の肩に手を掛けた。故意ではないが赤松の顔が日南子に近づき、それを嫌だと思う子供じみた感情が自分の中に湧きあがる。

「おっと! ごめん」
「いえ。大丈夫ですか?」

 そんな二人のやり取りの間に割って入った巽は黙って赤松の手を日南子の肩から引き剥がした。
 嫌だと思う──、これは嫉妬だ。
 亜紀を失ってから、いつも人との距離を測っていた。近づきすぎないように、深入りしないように。そうすれば、ラクに過ごせると思っていた。

 ──なのに。

「──何だよ」
「べつに。おまえ足下ふらついてんだろ。タクシー呼んでやるからここで待ってろ」
「や。俺、青ちゃん送ってくし」
「俺が行くからいい」

 有無を言わせないよう、キッパリと答えてポケットの仲から取り出したスマホで馴染みのタクシー会社に電話を掛けた。

「はい。一台。大里町の国道沿いの“くろかわ”に。──はい」

 電話を切って二人に向き直ると「五分で来るってよ」と、赤松に告げて、すぐ横に立っている日南子の手を掴んで歩き出した。

「おい! 黒川──、」
「た、巽さん? 赤松さん呼んでま、……」

 日南子が後ろを振り返りながら赤松を気にしている。彼女の性格からしてそれも当然のことなのは頭では分かっているが、それすら面白くないとか自分自身の急激な感情の変化に戸惑いながらも、それを誤魔化すように歩き続ける。

「いーから。じきにタクシー来るし」
「でもっ、」
「大丈夫。行こう」

 日南子の手を引きながら、店の戸締りをしてなかったことなどを今更ながらに思い出す。日南子のマンションまでたいした距離があるわけではないし、問題はないのだが、思いのほか自分が慌てていたことを思い知らされる。

「ふっ、は」

 思わず笑ってしまった。歩きながら振り返ると、日南子が驚いた顔で巽を見つめている。

 まるであの時のようだ。日南子が近所のコンビニから巽に助けを求めて連絡をしてきたとき。あの夜も、慌てて家を飛び出して、戻って見たら裏口の扉が半開きになっていた。
 思えば、すでにあの頃から巽にとって日南子はある種特別な存在だったのかもしれない。
 


 
 

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