love*colors
 
 日南子をマンションまで送り届けると、そのまま来た道を足早に戻って行く。
 さっきまで繋いでいた彼女の手の感触がいまだ左手に残っている。

「嫉妬とか、ガキかっつうの……な…」

 そう呟いて苦笑いをする。
 
 細道を抜けて大通りまで出ると、ちょうど店の反対車線の辺りにタクシーがハザードランプを点滅させて停まっていた。たぶんさっき呼んだタクシーなのだろう。通りを渡ってそれに乗り込む赤松の姿が確認できた。
 やがて点滅が止み、タクシーが静かに走り出す。走り出したタクシーは徐々にスピードをあげながらこちらに近づいて、そのまま走り去って行った。

 その瞬間、ポケットの中のスマホがピリ、と短く鳴り、メッセージを受信する。

【そろそろ自覚したかよ? さっきのアレ、そーいうことだろ?】

 表示されたメッセージは赤松からのもの。

「──は、」

 さすがに気づかれるか。赤松は昔から勘の鋭い男だ。あんなあからさまに二人の間に割って入った上に、半ば強制的に引き剥がしたのを、赤松が何も思わない筈がない。

「るせーよ、マジ……」

 けれど。はっきりと自覚した執着心。
 誰かに近づけたくない、触れられたくない。それはもう立派な──。

 ピリ、とまた短い着信音。今度は何だ、とメッセージを開き、その文面を見てほっとしている自分。

【青ちゃんと仲イイのは、おまえとのこと話してたからだよ、バーカ。自覚したなら、なんとかしろ。あんないい子逃したらマジ、次ねーから】

「……」

 彼女との親密な素振りや、頻繁に店に顔を出していたのは、俺を煽る為だったってわけか。すべてに合点がいったことにほっとして、フッと小さく笑って息を吐いた。

「……お節介野郎」

 そうだった。
 亜紀を失って三年。誰よりも巽の気持ちに寄りそい、時には叱咤して、そうして見守ってくれていたのはあの赤松だった。付かず離れずの絶妙な距離感を保ちつつ、たまに必要以上に踏み込んで来ては衝突を繰り返し、それでも次に会えばまた元通り。
 こういう仕事をしている手前、顔見知りはそこそこ多いが、巽にとっては唯一“親友”と呼べる相手の後押しをこそばゆく感じつつも、どこか胸が熱くなる。

 もう一度、勇気を持てるだろうか。
 もう一度、本気で愛せるだろうか。

 そして、今度はその手を二度と失うことがないように。


   *  *  *


 日に日に吹く風の冷たさが増す十二月。
 街はどこもかしこもクリスマスムード一色。近所の家々が凝ったクリスマスのイルミネーションの装飾を始めると、ああまた一年が終わるなと実感する。
 
「寒っみー…」

 昼営業を終え、店の外の“営業中”の札を“準備中”に差し替える。ちょうどその時店の前に駅方面からのバスが停まったのをチラと横目で眺めた。この辺りは駅までのアクセスも悪くない為、バスの利用客も多い。バスからわらわらと降りて来るのは高齢者や学生たちが主だ。
 店の前に溜まった街路樹の枯葉を手際良く片付ける。毎朝掃き掃除をしているが、昼過ぎにはもう結構な量の枯葉が溜まってしまう。

「巽さん」

 声を掛けられて振り向くと、そこには日南子が立っていた。休みなのだろう、私服姿で、両手に大きな紙袋を持って。仕事の時のオフィス仕様の私服と違い、どことなくカジュアル感が漂うその姿はもともと童顔な日南子をさらに若く見せる。

「おー、青ちゃん」
「枯葉掃除ですか?」
「あーうん。朝もやってんだけどな、この時期風強ぇえからどっからか舞い込んで来てすぐ溜まっちまう。青ちゃんは、買い物か? すげー荷物だけど」
「最近急に寒くなったから、冬物の服がないことに気づいて慌てて! ちょっと買い足すつもりが買い物スイッチ入っちゃいました」

 そう言って日南子が照れくさそうに笑ったのを見て訊ねた。

「寄ってくか? お茶くらい出すぜ」
「え? ──でも、」
「昼飯一人じゃ味気ねぇから喋り相手んなってよ」

 少し強引な誘い方だったかとも思ったが、日南子がほんのり頬を染め嬉しそうに頷いたのを見て、掃除用具を片付け店へと招き入れた。

「荷物、そのへん置いときな」
「あ、はい」
 
 そう声を掛けて自分の昼食を用意し、急須にお湯を淹れる。思えばこんな時間に彼女を店に招き入れるなど初めての事だ。湯のみを二つ用意してテーブルに着くと日南子が「あ、私が!」といって急須を受け取った。
 日南子が二つの湯のみに交互にお茶を注ぐ。最後の一滴の一番美味しいところまで注ぎ切る、そんな所作も丁寧だ。昼飯を用意するついでに、ちょっとしたお茶受けを日南子の為に用意すると、彼女が「わぁ」と嬉しそうに笑った。

「いただきます」
 
 巽が手を合わせると、日南子も同じように小さく手を合わせて湯のみを持った。

「ふふ。あったかい……」

 日南子がふわ、と笑う。今日は風も強く気温も低い。身体を温めるには温かいお茶が調度いいのだろう。

「巽さん、いつも一人でご飯ですか?」
「ああ。お袋たち来てるとき以外はほとんど一人だな」

 日南子が店の中をきょろきょろと見渡す。

「あ? どした?」
「あ、いや。よく知ってるお店なのに、昼間来るとなんか感じ違いますね」
「──そうかぁ?」
「うん。なんとなくですけど」

 たわいのない会話。少し前のぎこちなさはほとんど感じられなくなった。彼女がそう努めてくれているのか、何かが少しずつ変わっているのか。

「あと少しで今年も終わりだな。仕事、また忙しい時期だろ」
「はい。冬休み前なんでセールもあるし、来週あたりからまたちょっとバタバタします」
「大変だな」
「でも。この仕事結構好きなんで」

 誰と食事をするか。誰と過ごすか。
 最近、彼女と過ごす時間をあえて意識している。いままであまり深く考えたことなどなかったが、やはり日南子と過ごすこうしたなんでもない時間というものの意味を最近よく考えている。
 特別話が盛り上がるとか、なにか特別な事を話すとはない。ただこうして一緒にいると落ちつく。まるで時がここだけゆっくりと流れているかのように。

 再び誰かを自分の傍におくことなど諦めていたはずなのに、ひょっとしたら彼女となら──、と思う気持ちが日に日に強くなる。

   *

「お茶おかわりいるか?」
「あ。自分でやります。お湯、コーヒーマシンとこで良かったですよね?」
「はは。さすが常連、よく知ってんな」
「だって。見てますもん。いろいろと」

 そう言った日南子が悪戯な表情を見せた。立ち上がってコーヒーマシンの目の前に行った日南子がそこで立ち止まる。

「お湯だけは、その左側のボタン。」
「あ。これかな」

 返事をした日南子が「熱っ、」と小さな声をあげたのを聞き逃すことなく立ち上がり、彼女の元へ駆けつける。

「どした?」
「平気です。ちょっとお湯飛んだだけで」

 見ると、日南子の手の甲が赤くなっている。巽は日南子の手から急須を取り上げカウンターに置き、赤くなっているほうの手を掴んで水道の蛇口を捻った。

「一応冷やした方がいいな」
「そんな、大袈裟──、」

 日南子の手を掴んだまま自分の手ごと水で冷やすようにすると、彼女が黙った。

「冷たいな」

 温かな店の中とはいえ、外気は十度を下回るほどの真冬だ。日南子がコクコクと頷いた。すぐ隣で揺れる髪。さりげなく触れ合っている肩から伝わる温もり。やはり彼女の隣は温かい。

「そろそろいいか」

 水を止めて日南子にタオルを手渡すと彼女が「ありがとうございます」と言ってそれを受け取った。手を拭きこちらを見上げた日南子と思いの外至近距離で目が合って、妙にドギマギした気持ちになるのは、すでに芽生えて育っている気持ちを自覚しつつあるからか。

「巽さん、ちょっと……」

 日南子が俺を見つめたままこちらに向かって手を伸ばした。彼女の冷たい指先がそっと顎に触れる。

「お米」

 ふふ。と笑った日南子が、指先に付いた米をまるで元々自分の指に付いていたかのようになんの躊躇いもなく口にいれた。久々の天然発動。こういうことに、思わずぐっと来てしまう男が世の中に意外にもいることを計算してできる女と、そうじゃない女。彼女はたぶん間違いなく──。

「コラ。前にも言ったろ。迂闊にオッサンに触るなって」

 いつだったか似たようなことを日南子に言った覚えがある。
 そんな邪気や計算など微塵もないような顔して見つめられたら、手を伸ばして触れてみたくなる。

 
 そっと手を伸ばして日南子の頬に触れると、彼女の瞳が小さく揺れた。
 その目は戸惑いと期待を半分ずつ含み、その合間をユラユラと静かに行き来しているような。

「巽さ、」

 日南子の手が戸惑いがちに彼女の頬に触れたままの巽の手に添えられる。

「──まいったな、」

 そんな真っ直ぐな目を向けられたら。
 そんな真っ直ぐな気持ちを伝えられたら。
 好きにならずに、いられるわけがない。

「ほんと、まいる……」

 少しずつ日南子に顔を寄せると、彼女がキュッと唇を結んで目を閉じた。
 ほんの一瞬ふにゅ、と触れた唇。柔らかな感触を感じると共に掛けている眼鏡がすこしだけずれた。ゆっくりと唇を離すと、日南子が顔を赤らめながら、指でそろと巽の顎髭に触れた。

「……青ちゃん」

 そう呼びかけると、日南子が戸惑いがちに巽を見つめ訊ねた。

「今の──、」
「ごめん……思わず」

 けれど事故じゃない。誤魔化す気もない。
 俺がしたくて。したい気持ちを抑えきれずにしたことだ。

「巽さん、狡いです……今まで通りって言ったくせに。こんなの期待しちゃうじゃないですか」
「そうだな。俺、ホント狡りぃな」

 気持ちを受け入れられないと言って彼女を遠ざけておいて、悩ませておいて。今更こんなこと。

 けれど、気づいてしまった。
 日南子との時間が心地いこと。とても穏やかで温かいこと。彼女が傍にいてくれることで、自分の中の何かが変わって行くんじゃないかと期待が大きくなっていること。

「うん。分かってんだけど──、」

 手のひらの中におさまる彼女の頬の温かさも、顎に触れたままの彼女の細い指も。触れたらもっと欲が出た。
 
「狡くちゃ、ダメか?」

 今はまだ、弱いままで。過去から完全に立ち直り切れてなくて。
 真っ直ぐに向き合う覚悟を決めたとしても──、それでもまた悩んでしまうかもしれない。

 けれど。

 君が過去を忘れることはないと言ってくれたように。
 君が俺との恋を後悔しない、何もしないで諦めるほうがずっと辛いと言ってくれたように。
 俺が失くしたその強さに甘えても──?

「ごめんな。臆病な大人で」

 そっと日南子の頬を撫でると、彼女が悲しいのか嬉しいのかわからないような顔をしたまま、巽の顎に触れたままの指先をそっと動かして唇に触れた。

「──狡くても、臆病でも。それでも好きです」

 日南子の言葉が、温かく胸に沁み渡る。
 彼女といるとどこかほっとする。ささくれ立った渇いた心に水が浸み込んで満たすように。

 溢れる何かに突き動かされるように、そのまま日南子を腕に抱きしめた。

 こんな俺で、ごめん。強くなくてごめん。
 それでも思ってしまった。彼女に傍にいて欲しい──、と。
 
 


  
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