たった一つの勘違いなら。
「だから、架空でも偽装でも構わないから本命の女性がいるというほうが受け入れられやすいよね」

「はい」

「ある程度付き合った後で別れたということなら、そう不自然でもないかな」

「はい」

噂を流せということかなと思いつつ、口ははさめずただ相槌を打つ。

「誰にでも頼めることじゃないってわかる?」

「はい」

「君に頼めるよね」

「はい」

「ありがとう。君が彼女になってくれるなら、助かる」

え?


「よかった」

ホッとしたというように息を吐いて微笑まれて、なにも言えない。

え? 架空の彼女との噂じゃなくて? 彼女? 私が?

でも、とやっと口にしようとしたところを先回りされた。

「しばらくフリに付き合ってくれるだけでいいんだ。詳しいことは週末相談したいんだけど、どちらか空いてる?」

「はい、どちらも」

「じゃあ今連絡先交換させてもらっていいかな、携帯貸してくれる?」

慣れた様子で2台を操作して連絡先登録を済ませる手つきを見つめた。

なんだろう、これは。昨日に引き続く現実感のなさに、もう何かぼんやりとしていた。



「仕事を抜けてきたところなんだ。支払いはしておくからゆっくりしていって」

「はい」

「感謝してるよ、ありがとう」

なにがなんだか。

富樫課長が軽やかに立ち去った後も、催眠術にでもかけられているような気分のままだった。

まだ冷め切ってもいない紅茶ポットから、お代わりを注ぐ。

もったいないから飲んでから帰ろう。そんなことだけは現実的に考えられる。




でも。

『君が彼女になってくれるなら、助かる』

架空で偽装で。しばらく、フリ。本命。


私、承諾したの?

ダメだ、なにも考えられない。

紅茶をすっかり飲み終わっても、昨日から続く衝撃に私の頭はもう麻痺したままだった。


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