最後の男(ひと)
「今日は一香ちゃんと話せて良かった。まぁ、なるようにしかならないと思うけど、士郎のことよろしくね」

ニカっと悪気のない笑顔を見せた森君を下ろして、箱はさらに上昇していく。

社会に出たばかりの頃は、仕事で覚えることがいっぱいで自分の時間さえ儘ならなかった。ドタキャンしたくてデートの約束をした訳ではないことを分かってもらえなくて、気持ちを疑われたことも辛かった。

あの頃の士郎と私では、付き合い続けていくこと事すら難しい状況だったから、別れを告げられたという悲しみはあったけれど、同時に安堵したというのも本心だった。

なぜ事態は今になって動き始めるのだろう。
森君とは、あれから何度も会社で顔を合わせていたのに、どうして今そんな話をしてきたのだろう。

今さら暴露話をされても時間は取り戻せないし、当事者である士郎は、私のまえでは一貫してスタイルを崩さないから、あのキスがなければ、森君の話を聞かなければ、気楽なセフレ相手というだけで、士郎が何を考えているのか思いを馳せることはなかった。と、そこまで思って、本当は自分の感情に蓋をしてきただけなのかもしれないと、これまでを振り返る。士郎との関係に納得していたのだろうか。町屋先輩に言われた言葉が喉に刺さった小骨のように心に引っ掛かっている。

私、本当はずっと傷ついていたのかもしれない。


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