狐の声がきこえる
過去の記憶

体に染みわたるような焼香の香りが立ち込める中、僧侶の読経が低く、淀みなく続いていた。座敷にしつらえられた祭壇に向かう、金糸の刺繍が豪華な袈裟を着たその背中は小さい。でも座敷内に鷹揚とした雰囲気をもたらしていた。
畳の上で正座している足をさするついでに、皐月はちらりと後方に目を走らせた。
開け放した縁側では、祖母と親交のあった人たちが焼香に並んでいる。通夜だけでなく告別式にもひっきりなしに人が訪れていた。悄然とした顔ばかりがあふれ、中には強面の顔にも関わらずすすり泣いている男性や化粧崩れを気にせず何度もハンカチで目元を拭う女性もいた。
幼い頃に見て知っていた祖母の顔は、ほんの一部でしかないのだと改めて思う。
空は祖母の笑顔を翳らせるように曇り始め、部屋の中を風が焼香の香りを攫うように吹き抜けていく。
皐月は失いかけている足の感覚を労わるように、正座を少し崩した。同じように他の親族も、頭は神妙に垂れていても、時々身じろぎをしている。
ふと視界に、斜め前の方で背筋を伸ばして座る白彦の黒いスーツの背中が入る。しっかりと前を向いて、遺影を見つめているようだった。その背中に、狐面の男の子のことを問いかけたくなるのをこらえ、そのまま視線をずらして僧侶の上の方で微笑む祖母の遺影を見上げた。
祖母なら、狐面をつけた男の子のことに対して何か答えを返してくれたかもしれない。朝から堂々巡りで頭の中を占める、あの子が白彦である可能性や、あの子が人間ではない可能性や、なんやかやのことに。
祖母がいたらと空しく何度か思い、とうとう耐えきれなくなって唇をかみしめた。言い訳と口実で、向き合わなくてはならない現実から逃げている自分が、情けなかった。
本当はどんなことよりもまっ先に伝えなくてはいけない言葉があった。
胸の奥で疼く棘に苛まれながら、それでも素直に語りかけるべき言葉は出てこない。祖母の遺影を見つめながら、皐月は無意識に両手を握りしめた。旋律をもったような読経の声が現実を曖昧にして、少しずつ自分が遠い記憶に呼び寄せられていくようだった。
< 11 / 36 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop