狐の声がきこえる

幼い頃、もっと高い位置の遺影を見上げていた時があった。
遺影の顔が、白髯をたくわえたきつい表情の老人のものに変わる。祖父の葬儀の時のものだ。皐月は、裏庭の土蔵の前に、幼稚園に入ったばかりの幼さで立っていた。祖父がこの世を去ったということを、まだよくは理解できていなかった。
土蔵の扉から、一心に手を合わせて拝む黒羽二重の着物姿の背中が見えた。祖母だ。まるで漆黒の着物の裾が蔵の中に溜まった闇と同化して、祖母の方が消えてなくなってしまいそうに怯えた。その喪失感を振り払うように思わず「おばあちゃん」と皐月は大声で呼んだ。
振り返った祖母は、一瞬驚いた顔をしてからしわを深くすると手招きした。
蔵の中はひんやりしていて、埃と湿った匂いがした。うっすらと陽の光が祖母の所まで差していたけれど、隅の方は届かない。暗がりにあるいろんな物の、見えないところに何かが潜んでいそうで、幼い皐月は音を立てて起こさないようにおそるおそる歩いた。
祖母に近づくにつれ小走りになって、その着物の裾に抱きついた。
ーーじいちゃんさ逝っちまったこと、神さんに報告してたんだ。
ーーこんからは、ばあちゃんがここ守らななんねっぺ。
皐月の肩を優しく叩いた祖母が顔を上に向けた。つられて見上げた蔵の一番奥に紙垂がさがった神棚があった。
ーーあそこさ、お天道さんと山ん神さん祀ってんだ。
ーーじいちゃんが毎日拝んどったけど、これからはばあちゃんがお役仕りますってな。
屋敷の中の居間と土間にも大きな神棚はあったけれど、土蔵の中にも祀られている神がいる。まるで人目をはばかるように祀られた様子に、とても大事な神様なのだと幼い心で感じて、皐月は「私もお祈りする」と言って、小さな手を合わせた。
祖母は皐月をえらいと褒めてくれ、それから一緒に蔵の外に出た。その時、祖母は鉄の扉を確かに閉めた。でも皐月は祖父の葬儀の最中に、再び一人で土蔵を訪ねたのだ。
忙しそうな祖母に代わって、たくさんお祈りをしておこうと思ったからだった。
参列する人たちで往来する表の喧噪と無縁のように佇んでいた土蔵は、なぜか扉が開いていたように思う。
幼い子どもの足では決してのぼりやすくない高さのある階段をのぼって、中に入った。
そして神棚に向かって歩きかけた時、「見つけた」と笑う声が聞こえたのだ。子どもの声だった。とても嬉しそうなトーンだったから、怖さより興味をひかれて皐月は左右を見回した。
「上だよ」
楽しげな笑いと共に声が降ってきた。
上を見上げると、蔵の天井近く、太い梁に腰掛ける男の子がいた。まさかそんなところに人が、しかも自分と同い年くらいの子がいると思うはずもなく、皐月は驚いて立ちすくんだ。天井裏に繋がる梁の辺りにまでは陽の光は届かず、ぶらぶらさせる草鞋履きの子どもの素足が見えた。
「だあれ?」
問いかけると、またその子はクスクス笑った。
「だれだろうね、皐月ちゃん」
ちょっと意地悪そうな響きが混じっている。声の持ち主は知らないはずの皐月の名前を楽しそうに呼び、立てかけられた梯子へ移動して梁からするすると降りてきた。
それまで天井裏の片面がロフトになっていることも、梯子があってそこにのぼれるようになっていたことも知らず、皐月はただ呆気にとられたように相手の行動を見守っていた。
「こんにちは、皐月ちゃん」
皐月の前に来たその子は、自分と同じ高さにある切れ長の瞳を細めて、おどけながら挨拶した。
「こんにちは。あたしの名前、どうして知ってるの?」
「どうしてかな」とその子ははぐらかしてからクスクスと笑った。
「ねえ、どうして?」
「だって僕、ずっと遊びたかったんだよ」と嬉しそうに笑った。まだほうけたように相手を見ている皐月に、きらきらした目で男の子は無邪気に笑って自分を指さした。
「僕、白彦」
「きよいこ?」
「き、よ、ひ、こ」
「き、よ、い、こ」
うまく発音できない皐月に、男の子は肩をすくめた。
「じゃあ皐月ちゃんの好きに呼んでいいよ。皐月ちゃんだけが呼んでいい名前。特別だよ」
「特別? あたしだけ? ええっと……じゃあねえ……」
皐月は目を輝かせると、よく父が考えこんでいる時のように腕を組んでしばらく悩んだ。自分だけが呼べる名前というのは、なんだか自分自身が大きな存在になったような気がして嬉しかった覚えがある。
「きよくん」
そう呼んだとたん、目の前に立っていた男の子が少し驚いたように目を見張った。
「君……、今何かした?」
「え?」
「う、ううん、なんでもない。……うん、いいよ。皐月ちゃん専用だよ。これから皐月ちゃんが僕と遊びたい時、その名前を呼んでくれたらきっと遊びに来るよ」
専用と言われて、気持ちが華やいだ。祖父母の家で新しい友達ができて、しかも特別扱いしてくれるのだから浮かれるのも当然だった。
白彦は、初めて着た服の着心地を確かめるみたいに、自分の名前を何度も声に出していた。
皐月も自分の舌になじませるように「きよくん」と呼んだ。
白彦はまた驚いた顔をして、それから少しはにかんだ笑みを見せた。
「なんだか少し変な感じだよ」
「どうして? きよくんって嫌?」
首を傾げると、白彦は慌てて頭を振った。
「ううん、嫌じゃない。皐月ちゃんにそう呼ばれると、本当の名前よりもそっちの方がずっと僕の名前だったみたいな感じ。変な気分だよ」
白彦は少し不思議そうな顔で考え事をしてから、おもむろに「はい」とふっくらした小さな手を差し出した。皐月が手をのせるとしっかりと繋がれた。なぜか前から知っているような安心感が広がった。
結局その後、はしゃぎすぎて表で母に怒られることになるけれど、この時の皐月は土蔵の神棚のことはもう忘れて、祖父母の家でできた新しい友達と遊ぶことに夢中になっていた。
これが、皐月と白彦の出会いだった。
どこにでもありえる、たわいもない出会いだ。このことを「おもいだして」と、白彦にそっくりな狐面の男の子は言っていたのか。考えても分からなかった。何かが足りない気がした。
告別式はすでに終わりに近い。
皐月は視線を祖母の遺影から白彦に移した。祖母の棺に供花を一輪ずつ入れるために喪主を先頭に親族が並んでいる。白彦は前にいる従兄弟と何か言葉を交わし合って、かすかに肩を震わせて笑い、慌てて場をわきまえるように俯いた。
その瞬間、さらりと流れるように動いた髪に目を奪われた。通った鼻筋といい、無駄のない横顔の輪郭といい、本当にきれいだった。いや、きれいというより、美しいと言った方が近いかもしれない。父親である悟伯父も端正な容貌をしているけれど、そっくりとは言い切れないのだから、親族ならなおのこと。その端麗な容姿は、いったい誰からの血だろう。
そんなことを思いながら見つめていたせいか、視線に気づいた白彦が少し振り返った。
皐月を認めると微笑んで「大丈夫?」と口だけを動かした。頷いてみせると、安心したように頷いて前を向いた。そばにいた従兄弟がちらりと皐月に視線を走らせて、白彦を小突いた。
悟伯父、依舞、そして従兄弟とくれば、そろそろ周りの親族もそういう目で見始めるだろう。そのことに少し物憂さを感じながら、順番が近づいてきた棺を見た。
母が一輪、花をいれて、しばらく祖母の顔を見ていた。その背中がわずかに震えている。
顔を見ることができる実質的な最期の別れに、堪えきれない泣き声がどこからかあがっている。
皐月の番がきて、棺を見下ろした。
目の前にあるこの肉体は、祖母そのものだ。
渡された真っ白な菊の花を持ったまま、無言で祖母の穏やかな顔を見つめた。
さようならとか、安らかにとか、別れの言葉は一つも思い浮かばなかった。むしろ後悔ばかりが胸を締めつけた。
浮かんだ言葉はただひとつ。
まだ、逝かないで。
まだ、大事なことを伝えていない。
奥歯を噛み締めた時、後ろにいた依舞が急かすように「お姉ちゃん」と小さな声で呼んだ。頷いて、祖母の顔の脇に菊を供えた。生気の欠片のない祖母の顔は、真っ白い菊に囲まれて蝋人形のように見えた。
祖母の死は、まだ皐月の中に降りてこない。
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