狐の声がきこえる

揺れるバスの中で、すっかり目が覚めたらしい風子伯母は、皐月に飴をくれるとしばらく悟伯父の愚痴をこぼした。
「……奥さんに出ていかれてからというもの、まあ落ち着かないっていうのか、なんていうのかしらねえ。前からどっか浮世離れしていたけど、それに拍車がかかって。白彦くんも浮世離れしてるけど、それでもしっかりしているから。まったく、この大事な時にふらふらと。まあ近くに住んでるから自宅にでも戻ったのかもしらんわね」
そういえば白彦も同じ集落に住んでいると言っていた。「おばあちゃんの家に近いんだよね」と言葉を挟むと、風子伯母は頷いて、さきほどの神社がある山の方向を差した。
「そうよ、お山のすぐ裾のところ。男の二人住まいだから心配なんだけど、……皐月ちゃん、今度場所教えるから行ってみなさいよ」
口の中の黒飴を転がしながら聞いていた皐月は嫌な予感とともに、隣の風子伯母を振り向いた。その目に茶目っ気が宿っている。やっぱりそう見られてしまっている。軽い頭痛を覚えながら、曖昧に笑みを浮かべた。
「まあ、気が向いたら……」
「そんなこと言わずに。最近、白彦くんといい感じじゃない?」
「そんなことないよ。久しぶりに再会して、いろいろ積もる話があるだけで。それより」
このままでは面倒なことになりそうだと思い、強引に話題を変えた。
「あの神社、だいぶ朽ちかけてるけど、このままでいいのかな?」
「え? そりゃ……よかあないわよ。でも勝手にできるもんでもないからねえ……」
話題が変わったことに少し不服そうな顔をしながらも、風子伯母はまた飴をくれた。口の中の飴の甘ったるさが、今は少し重い。
「光子さんら、ちょうど建て直しで予算おろせんか村長に相談しとったとこだったべ」
不意に隣からしわがれた声がした。
「小里のおばちゃん」風子伯母がそう呼んだのは、葬儀の采配を護伯父とともにしてきてくれていた手伝いの小里という女性だ。幼い頃から本家に遊びに来ていたけれど、めったに顔を合わせることもなく、顔を合わせてもいつも厳めしい顔をしていて、どこか苦手な相手だった。
母など他の地方に嫁いだりした身内でも、どこか敬遠されている。でも祖父母からは絶大な信頼を得ていた。
「そうなの? で、予算おりるって?」
「わかんね。でもだからっちゅうてあのままにはできねえ。光子さんさおらんくなって、一気に荒れっちまったっぺ。光子さんが守ってだがらな」
声に咎めるような響きがまじり、風子伯母が目に見えて慌てた。
「え、やだ、そうなの? だって知らなかったし」
「知らんじゃすまんこともある。あれはここにゃ大事なお社だかんな」
「小里のおばちゃんの方がよく分かってるんじゃない?」
「……おらにはなんもできん。本家筋のもんだけができることだっぺよ」
風子伯母は小さく肩をすくめて、「ちゃんとします……」と言って、それ以上関わりを避けるように皐月に身を寄せた。
「怒られちゃった」あまり応えているようには見えない風子伯母は、そのまま過ぎ去った社のあった山の方に視線を走らせた。
「小さい頃はよく連れられてお参りに行ったもんなんだけどねえ。皐月ちゃんのお母さんは早くにこの土地から出ちゃったからそうでもないけど、おばあちゃん始め、本家の人たちは皆信心深い人だから」
「風子伯母さんも?」
「うーん、自分じゃ意識してないけど、そうかもしれないわね。なんだかんだ護兄さんも私も、小さな頃から神棚を大事にするよう躾けられてきてるから、ことあるごとに手を合わせてるかもしれない」
「裏の土蔵にある神棚も?」
「よっく知ってるわねえ。あそこ、おばあちゃん以外誰も近づかないと思ってたのに」
「え? あの、おばあちゃん以外近づかないって、風子おばさんもお母さんも?」
「そうよ」
「だから? 護おじさんが、風子おばさんが神棚の掃除してないって」
「え、やだ、そう言ってた? 分かってはいるんだけどねえ、だって気味悪いのよ、あの土蔵」
「なんで?」
「なんていうのかしらねえ、ちょっと普通じゃないっていうか」
顔をあげて、風子伯母は少し考えるように口をつぐんだ。
「この辺り一帯って、昔からキツネに因縁があるところなのよ」
護伯父もこの辺りはキツネが多いと言っていた。
「さっきの神社があるお山もそう、キツネがたくさん住むっていわれててね。しかもこの辺じゃキツネってあまりよくないものとされてきたの。キツネに化かされたとか、連れていかれたりとか、いたずらされたりとか。だからお狐さんって呼んで、崇め奉る風習があったとか、ね。本当か嘘かは知らないけど、まあ年寄りはそんな話をしてたわねえ。さっき悟兄さんがいたように見えたのも、おばあちゃんたちならお狐さんに化かされたとか言ったんじゃないかしら」
どこか懐かしむ響きとともに風子伯母が軽やかに笑った。どこか他人事のような雰囲気に、祖母や護伯父と違って伯母があまり言い伝えや風習に重きを置いていないのが分かる。
「だからね、おじいちゃんとか、猟をしてた人たちは、厄除けっていうのかなあ、まあお狐さんをつかまえたら悪さしないようにって山の神様に返すのよね」
どきりと鼓動が大きく波打った。
祖父が山の神様に返すと言っていたのは。
護伯父がキツネも猟の対象だと言っていたのは。
「それって、その……」
「ああ、生け捕りにして、しかもそれを土蔵の神棚にお供えするの。生きたままでよ? 一思いに殺しもしないのよ? そんなの嫌じゃない、動物が飢えたり撃たれた傷が元で弱っていく姿を見るのって。獣くささと死臭っていうのか、生臭い匂いもするし。しかもその死骸があのうす暗い土蔵の中でお供えされてるのよ。今でも思い出すとぞっとしちゃう。それ知ってるから、近づきたくないのよ」
わずかに眉をひそめた風子伯母は、動物の命を奪う行為よりも、土蔵で見られる光景の薄気味悪さに体を震わせた。
「お狐さんって、崇めてるのに?」
「うーん、なんていうのかしら。現世の肉体に閉じこめられている魂を山の神様のもとに還すってう感じかしら。ここでは、お狐さんにはそうすることが正しいと信じられてきたのよ」
土蔵にあった猟銃と錆びた檻。
そして祖父が怖い顔で返さなきゃいけないと怒鳴ったそれの正体。
ーー狐だ。
自分はあの時、狐をかばったに違いない。
直感を裏付けようと、必死で記憶を探った。
祖父、……祖母もいた。
そして檻の隅で丸まっていた小さな生き物。どこか怪我をしたのか、赤黒い染みが白い毛にこびりついて痛々しかった。まだ子狐に見えるその命を守るのは、自分しかいないと思ったのだ。
それからどうなった? あの狐の子は。
「ねえ風子おばさん、もし捕まえたキツネ……お狐さんを山の神様に返さなかったらどうなるの?」
お狐さんを殺して山の神に還すことが、祖父たち、この土地に生きる者が守ってきたならわし。
「さあ? よくは知らないけど、あんまりよくないんじゃない? そういうのは護兄さんがおばあちゃんから聞いてれば詳しいと思うけど」
少し困ったような顔で、風子伯母は肩をすくめた。かといって、さすがに喪主で忙しくしている護伯父に今聞くような話でもない。
「お狐さんは悪いもんだ。だがら山の神さんに退治してもらわにゃバチがあたる」
急に強い口調で言葉を挟んだのは、ずっと眠ったように目を閉じていた手伝いの小里だった。思わず驚いて小里を見た皐月を、小里はしわに埋もれた小さい目で鋭く見た。
「奉納しなかったお狐さんは、そのまま悪いもんとなって、人さまに悪さする。うっちゃってはおけん」
「でもそれは昔の話でしょ?」
風子伯母が少し呆れたように小里を見た。
「今も昔もねえ。お狐さんを供えなくなってから、いろいろ悪いもんが入ってきてんべ。風子さん、あんた分かんねのけ?」
また咎める響きが混じって、風子伯母が戸惑ったように口をつぐんだ。
「あの、普通のキツネがそのお狐さんになるんですか?」
「んだ。そこらにおるキツネが長生きしすぎっと、悪しき力をもつようなる。すっと、尾っぽが裂けてくんだ。んだがら、あんたのじいさんも尾裂きのお狐さんだけを撃っとった。普通のキツネは撃たねえ」
祖父の言葉がよみがえった。
皐月がかばったのは、ただのキツネじゃなかった。尾が裂けていると、だから山の神に返すのだと。
ぞくっと背筋に冷たいものが走った。
幼いとはいえ、皐月は何も知らずに、この土地の禁忌を侵してしまったのだろうか。というより、祖父母に禁忌を侵させたといった方が正しい。
うすら寒くなり、思わず皐月は両腕で自分の腕をさすった。
自分は、この土地のことを何も知らない。
改めて白彦が、戻れなくなることもあると言っていたことを思い出した。
あれは、警告だったのだろうか。
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